근대불교문헌

단행본單行本

ABC_BC_Y0038_0001_R_001
단행본單行本
宗敎寶鑑
龍城震鍾
尹庠勳, 『宗敎寶鑑』(1915, 崔基龍方), pp.111-117.
0001_0001_b_01L龍城震鍾 姓白氏貫水原 父諱日煥 母密陽孫氏 號慈行
前韓國光武皇帝卽位元年甲子五月八日生于全羅北道南原郡竹林村年二十依陜川海印寺華月和尙祝髮受沙彌戒於相虛和尙三十一歲受大戒反具足戒於禪谷律師三十五歲受法於南湖和尙
壬辰秋에始知無常世間이種種虛幼이라無一可樂달야一衣一鉢로遍參禪院할癸巳夏四月에於楊州郡古靈山普光寺에셔忽然擬情이頓發호夫世界萬物이皆有根本的性理니所謂人者은以何로爲本고又念從甚處起며念從甚處滅고야如是疑情이綿綿不絶야至第六日에忽地一念如桶底脫相似야不可心思口議也ㅣ러라 秋九月에於金剛山摩訶衍에셔參無融禪師고具述前緣師曰儞趙州道無意을作麽生耶오速道라那時에卽得無言可對ㅣ라師又問曰卽今에如何做工夫去오答曰我自心本이本空無相야本無修證니今亦無修라但虛■澹泊而已니라師曰不道不是나行人이道此田地야壤了一生也ㅣ니라汝更參無字話라卽依敎而行야苦身端坐而不臥야夜欲將睡면或冷水洗眼며或以錐刺之야惺惺寂寂然不昧런니甲午春三月에復還楊州普光寺兜率庵야忽地如百千斤擔子放下相似야可謂去年貧은未是貧이라有立錐之地런니今年貧이是始貧ㅣ라錐也無云者ㅣ是也어라甲午秋八月에向智異山金剛臺야拾橡充食松三月야更精勤不臥ㅣ러니乙未九月에往順天郡松廣寺三日庵야遇得傳燈一冊子야披閱이라가至睦州禪師의擧黃蘗話云月似彎弓니小雨多風이로다야忽然鼻孔을打失이러라自此로安邦定國며坐斷爲無야天下太平이러라舌不食過午之昧者ㅣ爲七年而所到諸處에鼓吹禪衆야激楊西來之祖意니如人이得基寶玉而未曾磨治달야自害가亦不少ㅣ러라庚戌冬十月에居智異山東國第一禪院方丈室이러니道兄信士李善行이自京城으로海印來到야因病請之언늘以火葬之야得靈珠一枚니如小圓鏡子야內外明哲이라以書通之러니京城信士가請余帶來어날累請不赴而益請이언을不得已赴請야看京城形便則各宗敎堂에敎旗特立고鍾聲이錚錚然호唯我佛敎은沈點寂廖ㅣ라因發大願야辛亥四月에與孫完靑年數十人으로開禪法會於西部姜洪大家니右氏가聞我禪法야大喜曰吾昔에已謂釋氏之道은以禍福之說로誘惑民心이러니今聞禪師法演코사始知佛門之廣大眞理가 開發衆生之明厚膜也ㅣ로다니此禪宗中央敎堂之根據也ㅣ라然이나信敎者ㅣ日增而最病者ㅣ敎堂設立이라以滿紙長書로遣金松月師於釜山梵魚寺니本寺持吳惺月諸和尙은本是吾敎中誠心敎育家ㅣ라已建設釜山敎堂고又大邱府에敎堂設立之餘에又得龍城禪師勸信야渾山合席이一致可決也ㅣ라又韓龍雲和尙은以臨濟宗宗務院運動事로在留梵刹이러니聞敎堂之發論고以湖南各寺運動之意로請之언을渾山諸師가許之ㅣ라龍雲師가遊說湖南各寺니自願者ㅣ從風而靡ㅣ라癸丑春三月에使秋一淡師로建敎堂於大寺洞니百魔饒舌에歷盡萬般辛苦라又加以付金取調之事로湖南各寺一時背約也ㅣ라唯我朝鮮은元是臨濟宗一脉故로立臨濟禪宗이려니譬如獅子身中虫이自食獅子肉ㅣ라同是僧侶之作戱故로不得已야以禪宗으로改稱也ㅣ라
조선불교통사
梵魚一方臨濟宗旨
이능화, 『조선불교통사』 권하(1918), p.961.
顧今通方禪界.共推龍城.(謂白龍城)爲巨擘.或因月似彎弓.少雨多風.(龍城禪師.每自詡此八個字.曾爲其機緣句)
정본 한암일발록
한암, 答望月禪院書
『한암선사 법어』(1922, 건봉사) ;
『정본 한암일발록』 상권(2010, 월정사), p.337.
요사이 내 방의 벽에 원숭이 두 마리와 돼지 두 마리를 그려 놓았는데 사람들이 보고 모두들 名畵라고 합니다. 그러니. 망월선원의 대중들이 한 차례 구경하러 오심이 어떻겠소.
近日 鄙留壁上에 畵二狼二猪러니 人皆稱名畵라 望月大衆은 一次來玩이 如何오
용성이 “趙州文字 不落十種病 道將一句來(조주문자를 십종병에 떨어지지 말고 일구를 일러라)”라고 각 선방에 돌린 글귀에 대한 한암의 답변.
한국근현대 불교자료전집
布敎堂 調査表
『朝鮮佛敎一覽表』(1928) ; 『한국근현대 불교자료전집』 권65(1996, 민족사), p.147.
北間島第四敎區 大覺敎會
間島,琿春,北鮮及,東海岸地方行脚記
연변의 대각사
川口忠 편, 『間道琿春北鮮及東海岸地方行脚記』(1932), p.137.
大正10년 我軍의 間島 토벌사건 이후, (일본 曹洞宗) 本願寺 포교사 上野興仁이 내문하여 조선인 지도소의 포교소를 열고 의료기관도 부설하면서 포교에 노력했지만 排日분위기가 농후한 鮮人은 관료의 주구라 부르면서 그것을 좋아하지 않아 큰 효과를 얻지 못했다. 다음은 대정14년 12월 上野師의 후임으로 天兒昊師가 재임하여 내선인의 교화에 노력하고 있다. 선인 신자는 언제나 정치나 사상 방면으로 나아가고 순수한 교의의 신봉에는 흥미를 지니고 있지 않았기 때문에 天兒昊師가 내임한 이후에도 역시 각별한 흥미를 유발하기 어려웠다. 때문에 소화 3년에 鮮人 僧侶가 운영하는 大覺敎會가 설립됨에 따라 신자의 대부분이 그곳으로 갔기 때문에 본원사 포교는 여기서 흔적이 끊어지게 되었다.
治安情況
대각교 신도 통계
『治安情況』(1934, 조선총독부), 「附表」
宗敎類似團體 敎勢 調査表
名稱大覺敎
本部 所在地京城府 鳳翼洞 二




昭和 三年 一四0
昭和 四年 四八
昭和 五年 四八
昭和 六年 四八
昭和 七年 四八
昭和 八年 四六
道峰山望月寺誌
附 修禪社 芳啣錄
金松月, 『道峰山望月寺誌』(1934, 도봉산 망월사), pp.33-35.
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回數年月日宗主入繩住持兼院主同參 禪衆摘要
1佛2947白龍城柳包空安寶光比丘 九人金松月禪師-化主로
庚申 冬信士 一人自任하야第四回에至함
2佛2948李仙坡比丘 十一人
辛酉 夏信女 一人
3同人比丘 二九人
辛酉 冬信士 一 信女 一人
4佛2949同人比丘 十五人
壬戌 夏信士 一 信女 一人
5金南翁比丘 十二人本年부터化主는
壬戌 冬信士 一人住持가兼任함
6佛2950趙晉曇比丘 四人
癸亥 夏信女 二人
7柳海空比丘 七人
癸亥 冬
8佛2951趙晉曇鄭石庵比丘 六人
甲子 夏
9白龍城許仁峰比丘 七人
甲子 冬信士 二人
10佛2952張在祐比丘 六人
乙丑 夏
11鄭雲峰比丘 四二人
乙丑 冬尼一人 信女 二人
12佛2954金大隱比丘 四人但丙寅年은凶額乏으로
丁卯 夏停會됨
13金荷翁比丘 四人
丁卯 冬信士 一人
14佛2957金龍潭金海月比丘 十人但戊辰己巳로庚午夏까지
庚午 冬亦年으로停會됨
15佛2958李月坡金松月比丘 九人
辛未 夏
16林道峰比丘 九人
辛未 冬
17佛2959李月坡比丘 十人崔德雲禪師가化主가 됨
壬申 夏
18具萬化比丘 十人
壬申 冬
19佛2960尹西湖比丘 十四人
癸酉 夏
20金德山比丘 八人
癸酉 冬
朝鮮の類似宗敎
대각교
『朝鮮の類似宗敎』(1935, 朝鮮總督府), pp.410-428.
五、大 覺 敎 (京城府鳳翼洞二)
0001_0010_a_01L本敎は大正十一年現敎主白相圭(前名白龍城)が、賞て(大正三年)自己の建設せし禪宗布敎堂に於て「大覺敎」と名づけて創設したものであり、時勢の推移に順應して現代に適した布敎方法に依り、佛敎の敎旨を廣く宣布せむとするを主なるあ目的となし、爲に說敎又は佛敎講座を開講し、佛典諺文に飜譯して出版する等の事業を計畫して居る。
敎主は元始元年、全羅南道南原郡下磻岩面竹林里に生れ、明治十六年二月慶尙南道俠川郡伽倻〈p.410〉面海印寺に於て華月和尙を師として得道し、次いて八月柏虛和尙より沙彌十戒を受け、明治二十七年慶尙南道梁山郡通度寺金剛壇にて禪谷律師を師として比丘戒菩薩戒を受け、爾後明治三十七年まで各地の寺刹に於て修道に勉め、その間各先師に就きて四敎科·法華經·維摩經·梵網經·四方律·拈頌·華嚴經等を講學した。明治三十七年以降は各寺の住持となり同四十五年京城禪宗中央布敎院の布敎師に任ぜられ、大正三年一月慶尙南道東萊郡北面梵魚寺に於て大禪師の法階に昇進、同年現在の地に布敎堂を建て、大正八年孫秉熙の獨立宣言運動に加名し、後各地の寺々を廻りて法會を行ひつゝあつたが、大正十一年本敎を創唱するに至つたのである。
本敎はその創設せられた當時は、相當有望視され、間島龍井村及び慶尙南道咸陽郡栢田面に支部の設置を見たが、財政意の如くならず、間島支部は廢止の已むなきに至り、本部にても現在日曜學校の生徒百名、說敎をきゝに集る者百名內外に過ぎない有樣である。
本敎の敎義は佛敎に基づくこと勿論であるが、その宗旨は敎主署名の「大覺敎名題稱理由」書明示するが如く「道の大源は覺にあり」と云ふにあり、この覺を得て以て新生活の展開を圖らむとするにある。
今左にその理由書を揭げてその趣旨を窺ふことゝしよう。
(上段原文、下段譯文)
題稱大覺敎者는其義何在오、本敎精神要素가 題して大覺敎と稱する其義如何、本敎の精神〈p.411〉專在於革新而己니라、自上古己來로眞理的·道德的·哲學的·科學的·兼善的·慈悲的인大宗敎가法久成弊하야不合於佛文本懷하니然則佛敎之衰退를於斯에可鑑矣로다。若不革新이면恐難扶持하야晝宵耿々이라가余壬戌之夏四月初八日에始稱大覺敎之名하니佛敎界中에不合余意者는間有反對之端而同情者ᅵ亦不多也라。以故로余ᅵ歷盡萬般辛苦矣러니偶與釋時鏡禪師로心志相合故로丁卯之春에同入於中華吉林省延邊地方하야建立大覺敎堂하고民衆大覺化事業을實施하다。

覺曰無有定法이名無上正眞之道라하시며又云眞性深々極微妙하야隨緣成就一切事法이라
要素は專ら革新にあるのみ。上古よりこのかた眞理的·道德的·哲學的·科學的·兼善的·慈悲的大宗敎も法久しくして弊を成し佛の本懷に合せず然れば則ち佛敎の衰退斯に於て鑑むべく、若し革新せざれば恐くは扶持するさへ難し。かくて晝宵耿々たりしが、余壬戌(大正十年)四月八日始めて大覺敎の名を稱せしに佛敎界中余の意を會せざる者間々反對するの端あり、同情する者も亦多からず。故を以て余は萬般の辛苦を盡し來りしが、偶釋時鏡禪師と心志相合し、丁卯(昭和二年)の春同じく中華吉林省延邊地方に入りて大覺敎堂を建立し民衆の大覺化事業を實施せり。
覺に曰く定法あるなきを無上正眞の道と名づくと、又云く眞性深々極めて微妙、緣に隨つて〈p.412〉하시니眞偉哉라、聖言也ᅵ시며觀其三世之千變하여變通無碍라야사可與聖人之道로合矣哉ㄴ저
又當時思潮와民智開發이與古不同이어늘固守舊習하야自取滅亡이可乎아、是故로佛敎를譯稱大覺敎라하니、何謂之大覺고、本覺과始覺과究竟覺이圓滿無二故로號稱大覺이요(本覺者天地世界와人畜動物의本然性이니水中의鹽味와如하야決定是有나不可見者也ᅵ니라、始覺者本有眞性을昧而不知라가因師覺之하야勇猛精進하야始合本性이니如採金鑛에百鍊而後에사始成眞金이니라、究竟覺者一成眞金에不重爲 鑛과如하야始本이合致에更不迷却故로名曰究竟覺이니라、)
一切の事法を成就すと。眞に偉なる哉、聖言や。三世に千變し變通無碍なるを觀ずれば聖人の道と合すべけむ。
現時の思潮及民智の開發は古と同じからす、固く舊習を守れば自ら滅亡す、可ならんや、是故に佛敎を譯して大覺敎と稱す。何をか大覺と云ふ、本覺·始覺·究竟覺として圓滿不二なるを以て號して大覺と稱するなり(本覺とは天地宇宙と人間動物の本然性なれば水中の如く必ずあれども見るべからざるものなり、始覺とは本有の眞理を、昧くして知らざりしを、師に因つて之を覺り勇猛精進して始めて本性に合すること、金鑛を採るに百鍊して後始めて眞金と感ずるが如し。究竟覺とは一度眞金と成れば重ねて鑛石たらざるが如く始本合致して更に〈p.413〉又世間出世間에窮通無碍故ᅵ며、又吾人之日用動靜에以覺爲師하야內覺에不昧本性하고外覺에不昧事物故ᅵ며、又天下民衆의思潮를觀察하는覺慧로時代에適合하도록敎理를宣傳故ᅵ며、又眞理와道德과唯心과唯物을倂行하야前進하며證實한哲學的因果를信行하고虛僞한邪見的迷信을打破故로通稱大覺이라나니此覺之一字에萬事萬理가圓融無碍하야無所不備로다。

故로道之大源이出於覺니라하노니本敎의宗旨가於斯에圓滿具足이로다。如此而覺得出身活路則樹々皆生新歲葉이요、花々爭發去年枝矣니라。大覺紀元二千九百五十八年辛未正月二 迷却せず故に名づけて究竟覺と云ふ)
又世間出世間に窮通無碍なるが故に、又吾人の日常動靜に覺を以て師と爲せば內覺して本性に昧からず外覺して事物に昧からるが故に、又天下民衆の思潮を觀察する覺慧より時代に適合すべく敎理を宣傳するが故に、又眞理と道德唯心と唯物を倂行して前進し、證實なる哲學的因果を信行して虛僞たる邪見的迷信を打破するが故に大覺と通稱するものなり。從つて此の覺の一字に萬事萬理が無碍圓融して備らざる所なし。
故に道の大源は覺に出づとなすものにして本敎の宗旨は斯に圓滿具足す。此の如くにして出身活路を覺得すれば則ち樹々皆新歲葉を生じ、花々爭つて去年枝に發すべきなり。大覺〈p.414〉十四日、白龍城識。
紀元二千九百五十八年辛未(昭和六年)正月二十四日、白龍城識。
猶ほ參考の爲に本敎の敎憲及び敎則を左に揭げる。
大覺敎敎憲附敎則
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第一章 敎 名
第一條 本敎ハ大覺敎ト稱ス
第二章 宗 旨
第二條 本敎ノ宗旨ハ道ノ大源ガ出ニ於覺-トナス
第三章 本 尊
第三條 本敎ノ本尊ハ迦釋牟尼佛一位ヲ以テス
第四章 儀 式
第四條 本敎ノ儀式ハ佛祖ノ宗訓ニ依リ且ツ朝鮮語ヲ以テ施行ス
第五章 正 經
第五條 本敎ハ大方廣圓覺修多羅了義經ヲ正經トス
第六章 入 敎
第六條 本敎宗ヲ信仰セントスル入敎願書ヲ提出シテ敎人名簿ニ記入セラル、ヲ要ス〈p.415〉
第七章 敎 會
第七條 中央敎會ハ京城ニ置ク
第八條 中央敎會ハ本敎ノ共有ニシテ地方敎會ヲ統轄シ灌頂師コレヲ管領ス
第八章 灌 頂 師
第九條 灌頂師ハ本敎ノ宗旨ヲ能ク擧揚シ德望崇高ニシテ戒行ノ嚴正ナル獨身修行者ニ限ル
第十條 灌頂師ヲ平生職トス
第十一條 灌頂師ノ繼嗣ハ前灌頂師ノ遺言ニ依リ第九條ニ該當スル者ニ限ル
第十二條 灌頂師ハ敎內ノ法規ヲ允可シ正敎師ヲシテ此ヲ實行セシム
第十三條 本敎ハ參禪·念佛·呪力ノ三門ト定ム
第十章 正 士
第十四條 正士ハ二十歲以上ノ受戒者ヲ以テス
第十五條 正士ハ捐財弘法ノ義務ヲ負フ
第十六條 正士法ハ別ニ此ヲ定ム
第十一章 正 敎 所
第十七條 本敎ノ敎務ヲ統辨スル爲中央及各地方ニ正敎所ヲ置ク
第十八條 正敎師ハ入敎シテヨリ十年以上經過シタル者ニシテ敎理ニ精通シ戒行淸淨ニシテ能ク灌頂師ヲ匡補シ興學布敎及敎內ヲ統理スル諸般事務ヲ執行セシム
第十九條 正敎所ノ規則ハ別ニ此ヲ定ム〈p.416〉
第十二章 集 會
第二十條 正敎師會ハ本敎ノ盛衰利害ニ關スル意見ヲ陳述シンノ施行ヲ要求スルヲ得
第二十一條 正士總會ノ會衆ハ灌頂師ノ特選トシ正士總會ヲ開ク
第二十二條 集會ノ諸規定ハ別ニ此ヲ定ム
第十三章 財 政
第二十三條 本敎ノ財政ハ基本財産ヨリ生ズル收入ト一般正士ノ誠金ト特別檀徒ノ喜捨金ヲ以テ充當ス
第二十四條 財政ニ關シテハ別ニ規定有リ
正 敎 所 規 則
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第一章 組 織
第一條 本所ハ敎憲第十一章ニ依リ此ヲ組織ス
第二章 職 制
第二條 本所ニハ正敎師一人ト正敎師ヲ補佐スベキ訓敎師若干人ヲ置ク
第三條 本所ニハ左ノ如ク各部ヲ置キ事務ヲ掌理セシム庶務部 敎化部 經理部
第四條 各部ニ專務一人ト常務若干人ヲ置ク
第五條 各部專務ハ該部常務ヲ指揮監督ス
第六條 各部常務ハ專務ノ指揮ヲ受ケテ部務ニ從事ス〈p.417〉
第三章 職 務
第七條 正敎師ハ灌頂師ノ訓示ニ參依シテ該所區域內ノ一切敎化事業ヲ統轄ス
第八條 訓敎師ハ正敎師ヲ匡補シテ敎化事業ニ專務ス
第九條 庶務部ノ主要ナル事務
一. 一般外交ニ關スル事務
一. 人事ニ關スル事務
一. 選擧ニ關スル事務
一. 集會·賞罰等諸般庶務ニ關スル一切事務
第十條 庶務部專務ハ正敎師此ヲ兼任スルヲ得
第十一條 敎化部ノ主要ナル事務
一. 敎化ニ關スル事務
一. 儀式ニ關スル事務
一. 法戒ニ關スル事務
一. 訓敎師養成ニ關スル事務
其他敎育及學會ニ關スル一切事務
第十二條 敎化部專務ハ訓敎師コレヲ兼任スルヲ得
第十三條 經理部ノ主要ナル事務
一. 本所內豫決算及支出ニ關スル事務〈p.418〉
一. 會計·帳簿·財産·物品保管ニ關スル事務
一. 基本金·喜捨金ニ關スル事務
第四章 敎職員選擧及任期
第十四條 正敎師ハ一般正士ノ推薦ニ依リ灌頂師此ヲ任命ス
第十五條 訓敎師ハ一般正士ノ推薦ニ依リ正敎師此ヲ任命シ灌頂師ノ裁可ヲ受クルヲ要ス
第十六條 各部專務ハ無記名投票ニテ正士會此ヲ選擧ス
第十七條 正敎師·訓敎師ハ隨時任命スルモ各部專務任期ハ二個年トス(但重任スルモ妨ゲズ)
第五章 所 議
第十八條 本所ノ事務ヲ統理スル爲各部專務ハ所議ヲ組織シテ左ノ各項ヲ討議ス
一. 正士總會ノ提當スベキ一切議案
一. 職員ノ進退
一. 臨時ニ起來スル一切事項
第十九條 本會ニハ月例會ト臨時會ノ二種アリ
大覺敎、正士總會法
0001_0014_b_01L
第一章 組 織
第一條 本會ハ大覺敎憲第二十一條ニ依リ此ヲ組織ス
第二章 召 集 及 開 會
第二條 總會ノ召集ハ灌頂師此ガ集會ノ期日ヲ定メ一個月前ニ發表ス〈p.419〉
第三條 總會ノ開會ハ正敎師會ヨリ此ヲ宣言ス
第三章 議 長 及 司 察
第四條 總會ニハ議長一人、副議長一人ヲ置ク
第五條 議長及副議長ハ議員中ヨリ無記名投票ニテ選出ス 任期ハ一年トス 投票ノ結果ガ同點ノ時ハ年順ヨリ定ム
第六條 議長ハ總會ノ秩序ヲ保持シ議事ヲ進行セシム
第七條 副議長ハ議長ヲ補佐シ議長有故時ニハ其職務ヲ代理ス
第八條 總會ハ書記及司察若干人ヲ置クモ議長此ヲ自辟ス
第九條 書記及司察ハ議長ノ命令ヲ承ケテ會務ニ從事ス
第四章 總會員選擧及任期
第十條 總會員ハ灌頂師ノ特選ト正士間ノ公選トシ任期ハ一年間トス
第十一條 總會員ノ資格ハ左ノ如シ
一. 年齡二十歲以上
一. 入敎三年以上
一. 中等學校以上ノ程度ヲ有スル者
第十二條 總會員ノ缺員ノ生ズル時ハ第十條、第十一條ニ依リ即時補缺選擧ヲ爲スモ任期ハ前任者ノ殘任期間トス
第五章 總 會 ノ 權 限〈p.420〉
第十三條 總會ノ權限ハ左ノ如シ
一. 豫、決算ノ裁決
一. 重要法規ノ協贊
一. 一切議案ノ議決
第十四條 總會員ハ總會ニテ一切議案ヲ提出及議決權ヲ有ス
第六章 委 員 會
第十五條 總會ニテハ重要議案ヲ審議スル爲分科委員會ヲ設ク
第十六條 委員ハ總會員中ヨリ銓衡シ定員ハ隨時ノ事件ニ依ル
第十七條 委員ハ委員中ヨリ委員長ヲ選擧シテ委員會ヲ組織シ重要議案ヲ討議決定ス
第十八條 委員長ハ委員會ニテ審議セル議案ヲ總會ニ報告スルヲ要ス
第七章 審 査 委 員
第十九條 總會ハ會計事務ヲ審査スル爲審査委員三人ヲ置キ任期ハ一個年トス
第二十條 審査委員ハ正士中ヨリ無記名投票ニテ選擧ス
第八章 會議
第二十一條 豫、決算ハ開會劈頭此ヲ提出ス
第二十二條 總會ニ對スル一切議案ハ開會十日前ニ議長ニ提出スルヲ要ス
第二十三條 總會日程ハ議長此ヲ作成シ總會ニ於テ同意ヲ求ムルヲ要ス
第二十四條 議案ハ提案者ヨリ遂條說明スルヲ第一讀會、委員會ニ於テ審議シ委員長此ヲ總會ニ報〈p.421〉告スルヲ第二讀會、總會ニテ決議スルヲ第三讀會トス
第二十五條 委員會ニテ否決サレタル議案ハ委員長其否決理由ヲ說明シ否決議案ノ保留廢止ヲ總會ニ諮問スルヲ要ス
第二十六條 議長ハ討論ノ終結ヲ宣告ス
第二十七條 議案ニ對スル修正動議ハ此ヲ具案シテ議長ニ提出スル事
第二十八條 總會ノ議決ハ多數決トス
第九章 休 會 閉 會
第二十九條 休會ハ臨時事情ニ依リ議長此ヲ宣告ス
第三十條 議事日程終了スレバ閉會ヲ議長宣告ス
第十章 懲 戒
第三十一條 總會員中左記各項ニ該當スル者ハ總會ノ決議ニ依リ懲戒ス
一. 正當ノ理由ナクシテ會場ニ出席セザル者
一. 會場ノ秩序ヲ紊亂サス者
一. 總會法ヲ守ラザル者
第三十二條 懲戒ハ左記三種トス
一. 懺悔
一. 發言權停止
一. 退場命令〈p.422〉
正 敎 師 會 規 約
第一條 本會ハ大覺敎憲第二十條ニ依リ此ヲ組織ス
第二條 本會ハ文書取扱ノ爲秘書一人ヲ置ク
第三條 本會ノ秘書役ハ中央正敎所庶務部常務ヲ以テ任ズ
第四條 本會ハ定期ト臨時兩種ノ會ヲ有ス 定期ハ每年三月トシ臨時ハ敎界重大問題ノ發生時灌頂師ノ召集ニ依リ開催ス
第五條 本會ハ正敎師半數以上缺席時ニハ議事進行スルヲ得ズ
第六條 本會ノ開催本會ノ召集法規ノ頒布等ハ正敎師ノ聯署ニテ此ヲ施行ス
第七條 本規約ハ正敎師正敎所ノ提案ガ正士總會ノ協贊ヲ經ルニ非ザレバ改正スルヲ得ズ
法 式 典 例
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第一章 總 則
第一條 敎會ハ左記法會ヲ必ズ行フ事
一. 通常法會
二. 臨時法會
三. 特別法會
第二條 敎會ハ左記法要式ヲ必ズ擧行ス
一. 年忌法要
二. 紀念法要〈p.423〉
三. 葬儀
四. 法統繼承式
第三條 會主及式典事務ハ必ズ灌頂師親裁スルヲ要ス 但特別ナル時ハ正敎師此ヲ代理執行ス
第二章 通 常 法 會
第四條 通常法會ハ敎會ニテ每日曜日ニ開催シ灌頂師或ハ正敎師敎旨ヲ宣設ス
第三章 臨 時 法 會
第五條 敎會內有故時及臨時說敎時ノ 時日ハ隨時此ヲ定ム
第四章 特 別 法 會
第六條 特別法會ハ本典例第二條各項中ニ該當スル法要ヲ執行スル時開催ス
第七條 時日ハ隨時此ヲ定ム
第八條 法要式ハ別ニ此ヲ定ム
第五章 年 忌 法 要
第九條 敎主及歷代敎祖ノ年忌法要ハ灌頂師ノ親修トス 但地方ニテハ正敎師此ヲ代理執行ス
第十條 年忌法要式執行日ハ左ノ如シ
一. 大覺敎主圓寂日(舊二月十五日)
一. 大覺敎祖圓寂日(隨時)
一. 正敎師ノ圓寂日(該敎堂ニ限ル)
第六章 紀 念 法 要〈p.424〉
第十一條 紀捻法要ハ親修トス 但地方ニテハ正敎師此ヲ代理執行ス
第十二條 紀捻法要式執行日ハ左ノ如シ
一. 大覺敎主誕辰日(舊四月八日)
一. 大覺敎主成道日(舊十二月八日)
一. 敎祖誕日
一. 嗣法誕日
一. 各敎堂設立紀念日(隨時)
一. 正敎師ノ誕辰(該敎堂ニ限ル)
第七章 葬 儀
第十三條 灌頂師圓寂シタル時ハ先灌頂師第幾組ト稱ス
第十四條 嗣法ハ灌頂師圓寂シタル時ハ直ニ法統ヲ繼承シテ灌頂師ト稱ス
第十五條 葬儀式禮ハ別ニ此ヲ定ム
第十六條 正敎師ノ葬儀モ此ニ依準ス
第十七條 正敎師ニシテ平生敎界ニ貢獻ノ多大ナル者ハ圓寂後灌頂師ノ稱號ニ推尊シテ敎祖列位ニ奉安シ敎祖年忌法要式禮ニヨリ每年法要式ヲ執行ス
第八章 法 統 繼 承 式
第十八條 法統繼承式ハ灌頂師法統繼承ノアリシ後別ニ時日ヲ定メテ此ヲ行フ〈p.425〉
第十九條 法統繼承式ハ親修トス
第二十條 法統式順ハ別ニ此ヲ定ム
正 士 及 信 徒 法
0001_0018_a_01L
第一章 總 則
第一條 本所ハ敎憲第十章第十六條ニ依リ此ヲ制定ス
第二條 大覺敎正士ハ一般信徒中ヨリ男女ヲ問ハズ二十歲以上ノ受戒者ニシテ該當敎會正士名簿ニ登錄サレタルモノヲ以テス
第三條 正士ハ當該敎會及一般信徒ヨリ異敎徒ニ非ルコトヲ認證サレタル者ニ限ル
第二章 信 徒
第四條 信徒ハ本敎ノ宗旨ヲ信奉シ敎會ノ敎化ニ依順スルコト
第五條 一人、信徒ハ二個敎會以上ニ屬スルヲ得ス
第六條 (出生地ト現住地)現住地ノ移動ニ從ヒ轉簿スルコトヲ得
第七條 信徒ハ左記各項ヲ必ズ實行スルコト
一. 敎會ニテ執行スル法會及法要式ニ必ズ參與スルコト
一. 每日早辰ニ五分間西向靜坐スルコト
一. 每月初週日ニ誠金ヲ納入スルコト
一. 入功時ト食事時ト禮佛時ニモ必ズ左記偈文ヲ持頌スル事
(入功時) 恒修淨業功速成大覺願〈p.426〉
(食事時) 供佛利生德速成大覺願
(禮佛時) 三寶加被力速成大覺願
第八條 信徒ハ正士トナルノ資格ヲ有ス
第三章 正 士
第九條 正士ハ本規第二章各條ヲ實行スルノ外宗科ヲ修學シ敎憲ヲ嚴守スルコト
第十條 正士ハ正士總會ニ參加スベキ代表ニ對スル選擧權ヲ有ス
第十一條 正士會ニ參席シ會議上ノ一切權利ヲ有ス
第十二條 正士總會ニ參席スベキ代表ハ正士會ニ於テ選擧シテ正敎所ニ報告スル事
第十三條 正士ハ每年度義務金壹圓宛ヲ該當敎會ニ納入スルコト
財 政 規 定
0001_0018_b_01L
第一章 總 則
第一條 本規ハ敎憲第三十章第二十四條ニ依リ制定ス
第二章 會 計 法
第二條 會計年度ハ每年一月一日ヨリ當年三月末日トス
第三條 會計年度所屬歲入歲出ニ關スル出納事務ハ翌年三月末日マデニ終結ス
第四條 基本財産ノ利潤篤志ノ喜捨金及正士ノ義務金信徒ノ誠金ヲ歲入トシ奉仕費及經常費ヲ歲出トス
第五條 每年度ニ決定サレタル經費ノ定額ハ他年度經費ニ充當スルヲ得ズ〈p.427〉
第六條 歲入歲出總豫算ハ前年會議ニ於テ順次款項ヲ區別シタル豫算表ヲ作成シテ提出スルコト
第三章 基 本 財 産
第八條 敎會名義ノ不動産及寄附行爲ニ依リ收入サレタルモノヲ積立タルモノ
第九條 各敎會々計ヨリ中央敎會ニ納入シテ積立タルモノ 但各敎會ハ中央敎會ニ總會計ノ一割ヲ納入シテ中央敎會ノ歲入部ニ充當シ中央敎會ノ豫算項目ニハ總豫算額ノ一割ヲ基本金ニ積立シルコト(以上)

敎名布敎所地區敎徒
大覺敎
六○○四○○一、○○○

(昭和九年八月末) 〈p.428〉
삼일운동비사
대각사 창건 시점
이병헌, 『삼일운동비사』(1946, 시사신보사), p.137.
질문 ; 피고는 어떤 절에 소속되고 있는가?
답변 ; 경상남도 합천 해인사의 승려로 있었고, 그 후 범어사에서 경영하는 경성포교소에 있다가 53세 때부터는 봉익동 1번지에서 단독으로 있었다.
한용운전집
한용운 취조서 및 공판기
『한용운전집』 1권(신구문화사, 1973), pp.361-373.
0001_0020_b_01L그 이튿날로 생각되는데, 나는 경상도 해인사의 승려로서 현재 봉익동 1번지에 거주하며, 전부터 잘 아는 백용성(白龍城)을 찾아가서 동인에 대하여 금번 각 교회가 단체로서 독립운동을 하고 있으니 그대도 참가하는 것이 어떠냐고 권하였다. 동인도 찬성하여 가입하였으므로 독립선언서를 인쇄할 때 동인도 대표자 중에 가입할 것을 최린에게 통지하였다.〈p.364〉-대정 8년(1919) 3월 2일 경무총감부에서

 피고는 최린 이외 다른 사람에게도 독립에 대한 말을 하였나?
 2월 25일경 천도교 도사 오세창을 찾아 최린에게 말한 것과 같은 말을 하고 의사를 물으니 천도교회에서도 그런 생각을 가지고 있다고 하였다. 또 2월 26일경 봉익동(鳳翼洞) 1번지 백용성 집에 가서 종교 단체에서 계획한다는 것은 아니나, 지금 천도교와 야소교에서 독립선언 운동을 계획하고 있으니 너도 불교측의 한 사람으로 참가하라고 권고하여 승낙을 얻었고 다른 사람에게는 말한 일이 없다.
문 피고는 백용성에 대하여 어떤 방법으로 조선 독립의 의사를 발표한다고 하였는가?
 그 방법은 말한 일이 없다.
 방법을 듣고서야 찬동하지 않았는가?
 천도교·야소교가 독립운동을 하고 있으니 불교측에서도 가입하자고 하여 찬성을 얻고 곧 돌아왔다. 그러나 선언서와 기타 정부와 총독부에 제출할 서면에는 인장이 필요하다고 하였더니, 백용성은 나에게 인장을 맡겨두고 갔었다. 그런 후 백용성은 볼 일이 있어 자주 연락만 하였는데 3월 1일 아침에서야 오늘 오후 2시 명월관 지점에서 발표할 것이니 오후 2시까지 나의 집으로 오든지 조금 늦으면 명월관 지점으로 가라고 하였다.
 백용성에게 독립선언서를 다수 인쇄하여 배포한다고 하였는가?
 말한 일 없다.
 백용성에 대하여 일본 정부의 승인이 없어도 독립의 선언을 함으로써 조선은 독립이 될 수 있다는 말을 하였나?
 그런 말을 하였다.〈pp.370~371〉-대정 8년 5월 8일 경성지방법원 예심 때

그 다음에는 선언서 3천매를 이종일에게 받아서 중앙학교(中央學校) 학생을 시키어 경성 시내에 배포케 한 일과 3월 1일에 선언서를 낭독할 때에 피고가 일어서서 독립선언식은 기쁘기 한량 없는 말과 금후에 더욱 노력하라는 인사와 2월 26일 백상규를 찾아보고 동의를 얻은 후 말이 너무 간단하기 때문에 백상규더러 또 한번 오라는 말을 하였더니, 그 날 저녁 백상규가 오기는 왔었는데, 그날 나는 최린을 보아야 하겠기에 최린의 집으로 가면서 백상규가 오면 기다리게 하여 달라고 일러둔 후에 최린의 집에 갔더니 최린의 집에는 그때 안세환과 임규가 와서 야소교와 합동할 의논이 있기 때문에 여러 가지 의논을 하고 늦게 돌아왔더니 백상규가 벌써 가고 있지 아니하므로 보지 못하고 그후 명월관 지점에서 만났다는 말을 대답한 후, 재판장은 휴게를 선언하였다. (『동아일보』 1920.9.25)〈p.373〉
운봉선사 법어
운봉 선사와 거량
『운봉선사 법어』(묘관음사, 1973), pp.13-14.
0001_0022_b_01L(운봉)스님께서 얼마 후 도봉산 망월사에 가셨는데 거기에는 용성 화상께서 「만일선회」를 설시하여 시시로 대중을 경책하고 계셨으니,

“불자야 인명이 호흡 간에 있거늘
어느 여가에 딴 일을 분별하리요
성성하게 정신 차려
머리에 붙는 불을 끄듯 하여라
이 몸덩이 금생에 제도 않으면
어느 생을 기다려 공부할 것인가?”

여기에 스님께서 입승 한 철을 보시는데, 하루는 용성 스님께서 법상에 오르시어 말씀하시기를,
“삼세제불이 나를 보지 못하였고, 역대 조사도 또한 나를 보지 못했거늘 현전 대중은 어떻게 나를 보겠는가?”
하시기에 스님께서 일어나 말하기를,
“유리 독, 속에 계십니다.”
하였더니, 제방에서 이 말을 가지고 논란이 많았었다.
금강경대강좌
이청담, 三昧는 마음의 정립 ; 용성과 혜월의 비사
이청담, 『금강경대강좌』(1977, 보성문화사), pp.399-400.
0001_0024_a_01L얼마 전에 돌아가신 백용성(白龍城) 스님이 통도사(通度寺) 건너 안산이 소금강이라 하여 경치도 좋은 데고 해서 거기 내원암(內院庵)에 계실 적입니다. 부산의 혜월(慧月) 스님이 물 떠 오라 해서 물 떠 오니까 그게 불법이라고 하듯이 그와 같은 도인입니다. 백용성 스님이 초심학인들 데리고 수고를 한다니까 혜월 스님이 수박을 하나 사 가지고 왔었읍니다. 마침 오니까 용성 스님이 점심상을 받아 놓고 다시마 튀김을 입에 넣고 씹는 판이라 혜월 노장님이 막 들어가 밥상머리에 앉자마자 다짜고짜로 「아 그거 맛이 어떻습니까. 맛이 좋습니까 나쁜니까.」 그러니까 「좋지도 안쁘지도 않습니다.」 용성 스님 대답이〈p.399〉 좋아서 먹는 것도 아니고 나빠서 먹는 것도 아니라는 것입니다. 「그럼 거 무슨 맛으로 먹습니까.」 「그저 먹을 뿐입니다.」 달리 또 어렵게 하는 법도 있지만 쉽게 남도 알아듣게 하기 위해서 이렇게 말한 것입니다. 다 같은 도인들끼리의 경지이니 이렇게 마음이 통하고 말이 통합니다.〈p.400〉
유점사본말사지
용성스님의 고승 진영 찬
『유점사본말사지』(1977, 아세아문화사), pp.43-44.
0001_0025_a_01L春溪堂 信英
蓮月堂 熙燦
畵也畵 模也模 彷佛焉之面目 梵音一相 作麽生畵得 石頭沙彌時
曾見六祖 又敎前尋思去 令人飜憶李將軍 會麽 大笑一聲山水錄
喚醒後人 龍城震種

愚隱堂 達善
毘盧有師 法身有主 海天碧如藍 日輪紅而盤 桂棹兮蘭獎 鑿空明兮潮流光
要會得老師之面目麽 一雷疊而振動乾坤 誰知仙家珍妙訣 更在靑山白雲表
咄 阿波羅阿波羅
喚醒後人 龍城震種 再拜

蓬庵堂 完直
紫金容三十二 丈夫身本自具足 自毫相光 彷佛焉師之眞面目麽
打破虛空骨 忽地霹靂起
喚醒門人 龍城震種 謹撰
환경대선사회고록
임환경, 3·1운동 밀약
임환경, 『환경대선사회고록』(1982, 서문당), pp.16-17.
0001_0026_a_01L1919년(己未) 2월 20일 오세창(吳世昌)의 연락을 받고 서울로 올라가 백용성(白龍城), 한용운(韓龍雲), 오세창(吳世昌) 세 분을 만나 밀회를 하야 조국의 장래와 현재의 긴박성 및 만세운동(萬歲運動)의 거사와 앞으로의 지시 사항인 “환경당은 年〈p.16〉少하니 만약을 대비하였다가 사식(私食)을 담당하고 以後의 수습과 地下운동을 하라”는 사전 설명을 듣고 약속대로 3월 1일 명월관에서 나와 파고다 공원에서 독립만세 3창을 하고 먼저 피신하여 있다가 고종황제 위령 기도로 대한문(大韓門)에 가서 분향독경하고 즉일 출발하여 해인사로 내려와서 지하운동을 하였다.〈p.17〉
滿空法語
무자 십종병에 대한 문답(無字十種病問答)
『滿空法語』(1982, 수덕사 능인선원), pp.96-97.
0001_0027_a_01L망월사 용성(龍城) 조실 스님에게 대중이 이르기를, “지금 제방에 월분과도(越分過度) 하는 학인(學人)들이 많습니다. 무슨 문제 하나 내주시면 제방에 돌려 경책(警策)하려 합니다.” 하였다.
용성 스님이 “조주(趙州) 스님 무자화두에 열 가지 병을 여의고 한마디 일러보시오.” 하는 글귀를 각 선방(禪房)에 돌렸다.
이에 덕숭산(德崇山) 만공(滿空) 스님의 회답은 “중이 조주에게 묻되 ‘개도 불성(佛性)이 있습니까, 없습니까?’ 조주 스님이 이르되, ‘무(無)’라 하였다.”고 하였고,
금정산 혜월(慧月) 스님은 답하기를 맹성(猛聲) 일할(一喝)하고 “나의 이 한 할이 옳으냐, 그르냐?” 하였고,
태화산(泰華山)의 성월(性月) 스님은 답하기를 “망월산 마루턱 구름이요, 금정산 아래 도적이로다.” 하였고,
상왕산(象王山) 보월(寶月) 스님은 “이 낱 무(無)자가 몇 가지인가?” 하였고,
삼각산(三角山) 용성(龍城) 스님의 자답은 “박 넝쿨 울타리를 뚫고 나가 삼밭에 누웠도다.”라고 하였는데,
후일 혜암(惠菴) 스님은 평하기를 “한가한 경계에 병들어 누운 사람이라.” 하였다.

평(評) ; 더욱 깊어지는 중병자(重病者)들이여.
허공도 또한 늙거니
『滿空法語』(1982, 수덕사 능인선원), pp.131-132.
0001_0028_a_01L스님이 어느 해 여름에 상경하여 용성(龍城) 스님과 함께 자리를 나눠 앉았는데 용성 스님이 말하기를, “만공 스님도 이미 늙었구료.” 하였다.
스님이 대답하되, “허공 또한 늙었거니, 색신(色身)이 어찌 늙지 않겠소.” 하였다.

평(評) ; 형상을 물어본즉 태허공(太虛公)에 부딪치다.
세 분 선지식의 할
『滿空法語』(1982, 수덕사 능인선원), pp.137-138.
0001_0029_a_01L스님이 혜월(慧月) 스님과 같이 양산 통도사로부터 청장(請狀)을 받아 그곳에 이르렀다. 대중이 모두 모여 공양을 받으려 할 때에, 혜월 스님이 별안간 할 一할을 하였다. 대중 공양을 마치고 막 발우를 걷으려 할 때, 만공(滿空) 스님이 할 一할을 하였다.
그 뒤 모든 선객들이 이 일을 듣고 놀라 의심하고 두 분 선지식의 할(喝)을 한 뜻이 어떤 것인가 하여 쟁론이 끊어지지 않더니, 드디어 용성(龍城) 스님에게 물었다.
용성 스님이 말하기를, “노승이 비록 그 사이에 들어 입을 놀려 말하고 싶지 않으나, 가히 여러 사람을 위하여 의심을 풀어 주지 아니할 수 없노라.” 하고 할 一할을 하였다.

평(評) ; 三화상의 가풍(家風)이여, 스스로 일어났다 스스로 꺼지네.
구도역정기
보배로운 구슬이 되라고 ; 九陀圓 李共珠 法師 편
『구도역정기(원불교 신서 2)』(1988, 원불교출판사), pp.78-84.
0001_0030_a_01L1924년(원기 9년) 10월 18일 남편의 삼년상을 마치게 되었다. 그동안 朴四時華 씨가 나를 찾아와 큰 스승님이 계시니 한번 만나 뵙도록 하라고 권유했었다. 그렇지만 나는 남편의 삼년상을 마치기 전에는 그 누구도 만나지 않겠다고 하여 거절하였다.
나는 수차례 권고해 왔던 훌륭한 분을 드디어 만나 뵙기로 했다.
원기 9년 10월 26일, 어머님(閔自然華)과 언니(李性覺) 그리고 나 이렇게 셋이서 시내 창신동 605번지를 찾아 나섰다. 이때 대종사님께서 상경하시어 이곳에 계신다고 했다.
우리 일행은 주소 한 장만을 가지고 집을 찾으려고 했다. 처음에는 쉽게 찾을 수 있을 것이라고 생각했는데 막상 어려웠다. 한동안 이 집 저 집 문패를 보아도 아니었다. 얼마를 찾아 헤매이다가 할 수 없이 찾지 못하고 우리를 안내해 주었던 박공명선씨 집으로 갔다.
공명선 씨는 박사시화 씨와 쌍둥이 형제였으며 대종사님 친견을 적극적으로 권장했던 분이었으며 주소를 적어 인도해 주셨기 때문에 우리는 공명선 씨에게 도저히 찾을 수가 없더라고 말했다. 다음날 공명선 씨는 자기집 심부름하는 아이 하나를 딸려 우리를 인도하도록 배려해 주셨다. 사실 어제 우리가 찾아 헤매인 곳은 605번지가 아닌 506번지였었다. 그러니 찾을 수가 없었던 것은 당연했다.
아무튼 첫 번째 날은 실패하고 다음날 출발할 때는 어머님께서 어른을 뵙는 인사를 챙겨야 한다고 하시어 우리는 약간의 과일을 준비해 가게 되었다. 어머님께서는 전날 허탕친 것에 대해 “아무래도 큰 어른 뵈러 가면서 빈손으로 갔으니 못 뵙게 된 것인가 보다.” 하시고는 과일점에 가서 제일 크고 좋은 것으로 부르는 값에서 일원도 에누리하지 않고 한 바구니를 사서 어머님이 손수 들고 가시게 되었다.
창신동 605번지에 제대로 당도하였다. 대문에 들어서니 강동욱 씨가 나오면서 “우리 선생님은 아무나 안 보시는데요?” 하고는 꼭 만나 뵈어야 하겠느냐고 다짐을 했다.
우리 일행은 꼭 뵈어야 하겠다고 했더니 대종사님이 계시는 곳으로 안내를 해 주었다. 대종사님께서는 원기 9년 2월 27일 서중안·전음광님 등 두 제자를 데리시고 상경하셨고, 그 후로도 몇 차례 서울을 내왕하셨다. 그러면서 여러 서울 인연들을 만나 교당 설립의 터전을 마련하셨고 교단의 동량이 될 인물들과도 만나시게 된 것이다.
나는 처음 대종사님을 뵈었지만 그 순간 두렵고 어려운 줄은 몰랐다. 상호 인사를 나눈 뒤 자리를 잡고 앉았다. 대종사님께서는 유난히 크신 체구에 환한 모습으로 우리에게 “귀한 사람들이 어떻게 여기를 오셨느냐?”고 하시며 궁금한 것이 있으면 물어 보라고 하셨다.
숙겁의 인연이던가? 우리 세 모녀는 허심탄회하게 각자가 묻어온 인생의 의문을 하나씩 여쭙게 되었다. 아무리 한 핏줄이라고 해도 살아가는 방식이 모두 다르고 생각하는 바도 다르기 때문에 어머님부터 말씀을 드렸다.
우리가 여쭙기 전에 대종사님께서는 당신부터 알고 있는 분야는 대답할 수 있지만 엉뚱한 일을 묻는다면 대답할 수 없다고 하시면서 가령 염주 깎는 법은 가르쳐 줄 수 있다고 하셨다.
가을 하늘은 맑기만 했다. 얼마나 오랫동안의 인연이 오늘 이렇게 마주하도록 했는지 알 수 없는 가운데 진지한 대화가 오고 갔던 것이다.
어떤 숙겁의 약속이었을까 수많은 날 수많은 사람들과 만나고 헤어지면서 살아가고 있지만 특별한 만남이란 쉽지 않다.
내가 대종사님을 뵙게 된 것은 아무래도 평범한 인연은 아니었던 것 같다. 한동안 침묵이 흘렀다. 그리고 어머님께서 드디어 말문을 열으셨다.
어머님은 三世를 알고 싶으시다고 말씀드렸다. 이 세상을 살면서 알고 싶으신 것도 많으셨겠으나 전생 현생 내생이란 三世에 대해 여쭈었던 것이다. 나의 어머님께서는 세간에 특별한 어려움을 모르고 평탄하게 살아오셨다.
그리고 어려서부터 佛心이 장하신 이모님을 통하여 불교를 알게 되셨으며 그때부터 계속 부처님을 신봉해 오셨다.
이런 신앙생활을 통해 어머님은 과거의 당신은 어떤 사람이었으며 돌아오는 미래에는 또 어떤 모습으로 변할지 그게 알고 싶으셨던 것이다. 그래서 대종사님께 三世의 일을 물으시고 그 해답을 듣고 싶어 하셨던 것이다.
이에 대해 대종사님은 의외라는 듯이 웃으시면서 가르쳐 주시겠다고 하시고는 性覺 언니에게도 물으셨다. 성각 언니 역시 일찍부터 불문에 귀의하여 스님들의 법문을 받들어 오면서 正道와 邪道에 대한 의문이 생겼음인지 정도와 사도에 대해 여쭈었다. 대종사님께서는 물론 잘 알려주시겠다고 하시고 마지막으로 나에게도 물으셨다. 나는 삼세일도 잘 아신다고 하고 정도와 사도에 대해서도 잘 가르쳐 주신다기에 이 두 문제를 다 알고 싶다고 말씀드렸다.
이때 대종사님은 나를 보고 욕심이 많다 하시며 역시 앞으로 모두 다 가르쳐 주시겠다고 하셨다. 그리고 우리를 만나니 마치 부모 형제가 기약없이 헤어졌다가 뜻밖에 만난 것처럼 반갑고 기쁘다고 말씀하고, 평소 사람을 많이 대하면 上氣가 잘 되는데 그날은 下氣가 되어 기분이 매우 좋다고도 하시며 웃으셨다.
대종사님은 매우 기쁜 성안으로 우리와 좀더 좋은 인연이 되기 위해 법명을 지어 주시겠다고 하시며 생년월일을 물으셨다.
그러나 어머님과 언니는 불교 고승인 白龍城 스님의 제자로 이미 佛名을 가지고 있었기 때문에 나에게나 지어주시라고 말씀드렸다. 대종사님은 나를 보시고 이름이 무엇이냐고 물으신 후 그 자리에서 ‘共珠’라고 하시며 써보라고 하셨다. 그리고 법명에 대한 풀이를 해주셨다.
“구슬이란 매우 보배로운 것입니다. 이 구슬은 한두 사람만이 가지고 보는 것보다는 여러 사람들이 가지고 보는 것이 가치 있고 보배로운 것입니다. 그래서 그대의 법명을 共珠라 하는 것은 세계의 인류가 모두 함께 보는 보배로운 구슬이 되어달라는 뜻이요, 오늘부터 그대는 귀중한 구슬이면서 모든 사람이 다 함께 보는 보배로운 구슬이 되어 우리 회상의 발전에 노력함은 물론이거니와 세계를 향해서도 한없이 큰일을 해주기 바랍니다.”
이렇게 하여 나는 즉석에서 대종사님으로부터 법명을 받고 제자가 되기로 했다.
돌아오는 길에 나의 어머님께서는 “그 선생님이 너하고는 아주 인연이 깊은 분인가 보다. 너를 반겨 주시고 좋은 법명도 지어주시는 것을 보니” 하시며 어떤 숙겁의 약속된 해후가 아닌가 하는 뜻을 비치셨다.
이로부터 이틀 후인 10월 27일 우리는 다시 대종사님을 찾아 뵈었고 이날 정식으로 법명이 적힌 교도증을 받게 되었다. 이때 동행했던 성각 언니 딸 金永信이도 대종사님으로부터 법명을 받게 되었다.
그리고 이듬해인 원기 10년 1월 14일 나의 연원으로 어머님과 언니도 불교에서 받은 불명을 따로 두고 閔自然華·李性覺이란 법명을 받고 대종사님 문하에 들어오게 되었다.
실로 우리 가정에 있어서는 큰 변화가 아닐 수 없었다. 따라서 나 자신에게도 알 수 없는 마음의 움직임이 일기 시작했다. 내가 만난 그 어른이 말씀하신대로 正道와 邪道에 대한 확실한 것도 알 수 있을까 하는 등 여러 가지로 궁금증이 일어나면서 큰 기대와 희망이 교차되었다.
내가 이처럼 대종사님을 뵙고 설레임으로 지내기 며칠이 지난 11월 4일 열흘도 안돼 대종사님의 下書를 받게 되었다.

謹 未審 數朔回 侍體候 萬旺하시며 萱堂氣力도 康寧하시고 令兄主及侄氏 諸節도 緣得平善하온지 倂昻溯 區區하나이다. 此人은 여러분 眷愛하신 德澤으로 無事히 倒着하옵고 眷屬도 無故하나이다. 相逢한지 未幾에 分在 南北이오나 相扶之心은 未嘗一時弛라 望須久相愛하시와 世世生生에 共作 靈山會하시기를 企祝不已이옵니다.
貴座四人을 逢着한 後로 緊實한 誠意와 高明한 才質을 念念不忘하와 心中이 恒常快樂하온즉 今般 京城之行은 大得無價之寶로소이다. 餘在續後 不備禮
甲子 十一月 二日
石頭居士 謹函

대종사님으로부터 처음 下書를 받고 나는 얼마나 기뻤는지 모른다. 원기 9년 11월 4일 나는 바로 답서를 올렸다.
이렇게 하여 시작된 대종사님과의 서신 왕래는 자주 있게 되었다. 두 번째로 보내주신 下書에서는 “… 장차 處士의 법은 共珠의 물건인가 하나이다…” 라고 하시어 나는 정말 새로운 사명감을 느끼게 되었다. 그리고 그 다음에 보내주신 下書에는 “… 어서 성불하여 불우한 여성들을 맡아 가시오. 고독하다 마시고 어서 성불하시오…”
성불, 얼마나 힘든 일인지 그 당시는 잘 몰랐지만 성현의 알뜰하신 보살핌에 한결 용솟음치는 법열이 일었고, 특히 여성들의 문제를 말씀하시어 나는 더욱 어깨가 무거워졌다. 그래서 나는 대종사님의 지도를 받아 암울했던 우리 여성들의 삶에 조금이나마 보탬이 되는 일을 해야겠다고 결심하게 되었다.
그리고 이때부터(원기 10년 2월 20일) 師書라고 하여 下書를 보내주셨다. 당시 서울에는 10여명의 제자들이 모여 법설 듣는 시간을 자주 갖기 시작했다. 그래서 나는 桂洞 우리집 사랑채에서 대종사님을 모시고 법설을 듣게 되었고 대종사님 총부 내왕하시는 제반 비용을 담당하기도 했다.
그해(원기 10년) 12월 대종사님께서는 박사시화·이성각·조전권 등과 함께 내 생일을 축하해 주시면서 다음과 같은 말씀을 하셨다.
“공주는 앞으로 어떤 큰일을 하고 싶소? 가장 보람있는 일이 무엇이라고 생각하시오?”
나는 평소 생각했던 여성계몽운동에 대해 말씀드리고 1천만 조선 여성을 위해 그동안 남성들에게 억눌려 살았던 여성들의 권리를 찾아 줄 수 있다면 큰 보람이 될 것 같다고 말씀드렸다.
“참으로 훌륭한 생각이오. 여성계몽을 위해 구체적으로 생각한 것이 있습니까?”
나는 사실 구체적인 것까지는 생각을 하지 않았다. 다만 이 여성운동을 위해 일본 유학을 하여 문학박사가 된 후 글을 써서 계몽운동을 위해 해 볼까 했기 때문에 이런 나의 생각을 말씀드렸다.
나의 말을 한동안 듣고 계시던 대종사님께서는,
“문학박사가 되어 일천만 여성이 많은 것 같으면서도 사실 전체 조선 국민에 비하면 적은 것이요. 더구나 수십억 세계 인구에 비하면 한 부분에 지나지 않는 것이니 조선 국민 그것도 1천만 여성을 위하여 헌신하겠다는 생각은 管見이오. 더욱이 글을 써서 여성들을 계몽시키겠다고 하니 그 글을 읽는 사람 또한 소수에 지나지 않을 것이니 공주는 생각을 더욱 넓혀 도덕박사가 되어 세계 전체의 인류를 제도하는 것이 좋지 않겠소.”
그 당시 얼마나 많은 우리나라 여성들이 차별대우를 받으며 소리 없는 눈물을 흘려야 했는지는 역사 속에서 이미 자타가 공인하는 바이다. 그래서 나는 여성계몽운동에 많은 관심과 뜻을 두었었는데 대종사님께서 그보다 더 넓고 깊은 일에 대한 눈을 뜨게 해주셨다.
그래서 나는 일본 유학에 대한 생각을 거두고 서울 교당 일에 몰두하였다. 교당 주무라는 임무를 부여 받았고 교당 문서 처리며 일체의 사무관리 교당 운영에도 많은 관심과 협력으로 중생 구원의 법도량을 뒷받침하게 되었다.
나는 날이 갈수록 신앙과 수행에 대한 여러 가지를 깊이 알고 싶었다. 그래서 대종사님을 만나 뵙는 때면 나는 이것 저것 잘 여쭈었다. 원기 11년 12월 9일이었다. 대종사님께서 창신동에 오시어 在家禪法과 苦樂의 원인에 관한 법설을 하셨는데 나는 여기에서 수양의 힘을 얻기 위해서 어떻게 공부해야 하는가를 여쭈었다.
“아침 일찍 일어나서는 좌선을 하고 저녁 잠자리에 들기 전에는 염불을 많이 하시오.”
대종사님의 말씀에 나는 어떤 염불을 해야 될지 몰라서 또 여쭈었다.
“염불은 나무아미타불을 하면 됩니다.”
나는 어쩐지 젊은 사람으로 나무아미타불을 염하는 것이 쑥스러울 것 같아 다시 말씀드렸다. 대종사님께서 그러면 시구는 읽을 수 있겠느냐고 하시고는 ‘去來覺道無窮花 步步一切大聖經’이라고 알려 주셨다. 이 시구는 후일 祝呪의 일편이 되었다.
이렇게 하여 나는 틈틈이 이 시구를 외웠고 세월이 흘러 원기 13년 3월 26일 제1대 제1회를 결산하는데 참여하게 되었다. 그때 교도 수는 약 3백여 명이었으며 전무 출신으로 30여 명으로 한 가족 단위였다. 대종사님은 친히 법위를 사정하시었는데 나는 6명에 해당되었던 특신급에 사정되었고 사업 성적은 정식 2등으로 2명 중 2호에 들었다.
그 당시에는 어느 때 어느 일 하나도 어김없이 일기를 통해 기록이 되었고 그래서 모든 일들이 분명하게 판단되었다. 참으로 선명하고 두 번 돌아볼 필요가 없는 철저한 대종사님의 가르치심이었기 때문이 아닌가 하고 몇 번이나 생각해 보았다.
觀音呪力의 효험 ; 融陀圓 金永信 法師 편
『구도역정기(원불교 신서 2)』(1988, 원불교출판사), pp.269-279.
0001_0033_b_01L내 본명은 김순득(金順得)이다. 부친은 경주김씨로 신라 경순왕의 후손으로 함자가 영자 환자인 것만 알고 있다.
내 생일이 무신년 이월 열세날이고 양력으로는 1908년 3월 8일생인데 아버님은 바로 이해 여름에 돌아가셨으므로 나는 아버님 얼굴도, 이름을 한자로 어떻게 쓰는지도 모를 밖에 없었다. (중략)
나는 외가에서 한문사숙을 하며 그 후 한자를 보는 데 어려움이 없었고 4년제 사범부속 보통학교에 들어가 계속 개근하고 또 우등을 하였다.
졸업을 하고 경성 여자고등보통학교(경기여고 전신)에 학교 추천으로 무시험 면접만 보고 들어갔다. 전국에서 가장 좋은 여학교라 시험을 보아 들어가기도 힘든 학교였다. 여학교에 디니면서도 나는 성적이 5등 밖으로 벗어난 적이 없었다. 나는 공부든 운동이든 무엇이든지 남에게 뒤진 일이 없었다. 장차 유학도 가고 무엇도 하리란 꿈이 대단하였는데 열일곱 살 되던 2학년 때 가을 내 인생의 행로가 전연 뜻하지 않은 방향으로 전환하고 말았던 사건이 일어났다.
그때 서울(京城)엔 여학교가 여덟 개가 있었다. 경기, 진명, 숙명, 정신, 이화, 배화 등등이었는데 매년 가을 연합운동회가 열렸다. 나는 경기고녀 육상 대표선수로 나가게 되었다.
학교의 명예를 걸고 열심히 뛰어서 막 골인점에 들어가는데 뒤에서 누가 탁 밀어서 넘어졌다. 넘어지면서도 나는 테이프를 끊고 넘어졌다. 1등은 하였으나 얼굴에는 피가 흐르고, 이때 내 운명은 벌써 결정되어 있었다. 얼굴 한쪽 부분이 뭉그러지고 얼굴 한쪽 부분이 썩고, 이가 죄다 물러내렸다.
세브란스 병원에 가니 얼굴을 째고 광대뼈를 잘라내야 된다는 것이다. 그래서 얼굴에 구멍을 뚫고 기계를 집어 넣는 것이었다.
어머니와 나는 병원에 입원하면서부터 수술이 끝난 뒤까지 1분도 쉬지 않고 관세음보살을 불렀다. 죽게 생겼으니 관세음보살 밖에 의지할 데가 없었다. 나는 이 관음주력으로 병 쾌유에 큰 경험을 얻었다.
인사동에 있는 포교당에 다녔고 이곳에는 백용성(白龍城) 스님이 계셨다. 우리 어머니는 홀몸이라 부처님께 오로지 의지하셨고 신심이 굉장하였다. 부처님께 인연을 건다며 내 갓난애 때부터 등에 업고 꼭 절에 다녔다. 용성 스님은 대각교(大覺敎) 창시자로 관음경 법회, 법화경 법회를 보름마다 혹은 일요일마다 법회를 열었다. 어머니는 하루도 빠지지 않고 개근을 하였고 나도 자연히 개근을 하였다.
나는 과자를 먹으며 법당에 기어 다녔고, 놀아도 포교당에서 놀았다. 당시는 포교당을 교당이라 불렀다. 용성 스님이 처음 포교당을 지을 때 어머니는 1등 화주 노릇을 하였고, 또 궁궐의 궁녀들을 많이 포교하였다. 궁녀들은 임금이 입던 옷을 다시 지어 스님께 올렸고 궁궐잔치에나 내는 음식을 스님께 봉양하였다.
내가 커서 학교 다닐 때도 학생회에 나갔다. 납월 8일 성도절이 되면 연극을 하였고 사월 초파일엔 성가도 불렀다. 용성 스님이 3·1운동 당시 33인 중의 1인으로 그뒤 감옥에 투옥되었을 때 우리들은 감옥 주위를 빙빙 돌며 찬불가를 부른 적도 있었다.
얼굴을 다치기 전에는 잘 생겼다는 얘기를 듣고 남학생들이 따라다니고 별일도 많았지만, 얼굴이 상하고부터는 ‘어찌할꼬’ 걱정뿐이었다.
걱정 끝에 중이 될까도 해보았고, 고아원에 가서 봉사를 할까, 불교계의 유치원을 만들어 보모가 될까, 생각하였다.
이 무렵에 박사시화(朴四時華) 할머니가 전라도에서 생불님이 상경하셨다며 우리 집을 자주 내왕하셨다. 어머니가 포교당의 수좌로서 독실한 불교신자라는 것을 알고 찾아와 마침내 어머니를 사로잡았고 그리고 큰이모까지도 한꺼번에 포교를 한 것이다.
그때 우리 집안은 큰 우환 중에 들어 있을 때였다. 우리집은 열일곱 먹은 처녀가 얼굴 병신이 되어 있으니 큰 걱정이요 큰이모는 젊은 나이에 이모부를 여읜데다 둘째 아들이 병중이라 다들 비관에 빠져 있었다.
이러한 중 생불님 계신다 하니 뵈러 가야 하겠는데, 외조모는 두 과부 딸을 보낼 수 없어 “내가 가봐야 한다.”고 나서 두 딸을 데리고 앞장을 섰다. 이때가 1924년(원기 9년) 늦가을이었다.
내가 얼굴을 다쳐 급성 뇌막염으로 몸져 눕게 된 것은 어쩌면 불연(佛緣)의 소치가 아닌가 생각된다. 처녀로서 얼굴은 생명이랄 수 있는데 하필이면 얼굴을 상한 것은 부처님 당신 곁에 날 부르심이 아닌가 생각될 때가 있다. 세브란스 병원에 가니 급성 뇌막염이라며 수술을 해야 하는데 수술을 해도 24시간 안에 죽는다고 한다. 나는 수술을 거절했다. 24시간 안에 죽을 바에야 무엇하랴 싶었다.
집으로 돌아오는 길에 우리 모녀는 생각하였다. 기왕에 사형 선고를 받았으니 용성 스님이나 뵙고 최후로 불공이나 하자며 포교당에 갔다. 사색이 된 나와 근심어린 어머니를 보고 공양주는 방금 누구 불공 올릴 마지(불공밥)를 대신 우리 불전에 공을 드리게 하였다. 불공을 하고 난 뒤 우리 모녀는 한 가지 결심을 하였다. 약도 소용없고 수술도 소용없으니 부처님만 믿자 하고 나는 무시 간단으로 관음주력에 힘썼다. 다행 관세음보살의 은덕인지 나는 24시간 안에 죽지 않았다.(중략)
이후로 매일 나는 약수를 마시고 약수로 밥을 해 먹고, 또 약수로 얼굴과 몸을 씻었다. 그로부터 얼마 가지 않아 고름이 엉겼던 얼굴은 아물고 곧 건강을 회복하게 되어 나는 1년 만에 다시 학교에 복교하게 되었다.
정작 병이 나은 뒤 전혀 뜻밖의 일이 생겼다. 북악산 약수로 병이 치유되었다는 소문이 온 장안에 퍼지기 시작하여 내로라 하는 양반은 사인교를 타고 산에 오르는가 하면, 연일 약수터를 찾는 사람으로 장사진을 쳤고, 덩달아 장사꾼들도 성시를 이루었다. 대각교 포교당에서 내는 불교 잡지에는 〈관세음보살 神力〉이란 제하로 나에 관한 기사가 났다.
내가 생각해도 참으로 알 수 없는 신기한 일이었다. 그 몇 달 뒤에 대종사님을 뵈었을 때 이 일을 말씀드렸더니,
“누구든지 일심을 모으면 그런 신통이 생기는 것이다.”
그럴 수도 있는 일이라는 것이다. 하루는 대종사님을 모시고 어머니와 나는 쌀을 씻고 반찬거리와 과일을 장만하여 약수터를 찾아 갔다. 약수로 밥을 지어 놓고 우리 모녀가 산신령님과 관세음보살님께 절을 하려고 하자 대종사께서 말씀하셨다.
“절할 것까지 없다.”고 엄하게 말렸다. 그때부터 일체 우리 모녀는 우상을 모시고 절을 하지 않았다.
入門과 入會
0001_0036_a_01L박사시화의 쌍둥이 자매인 박공명선(朴孔明善) 씨는 계동 딸네집(成聖願)에 살았다. 당시 우리도 계동(큰이모집)에 있었는데 성성원 씨 집과 얼마 안 떨어진 한동네였다.
하루는 박공명선 씨가 전라도 생불이 오셨다며 가보자고 데리러 왔다. 지난 봄에 전라도 생불님이 오셨을 때 사시화 씨가 그렇게 우리집을 드나들었건만 집안에는 기중이라 외부 출입을 꺼렸다. 그것은 큰이모(九陀圓)가 부군상을 당하고 3년상 중이었기 때문이었다. 가을에는 탈상을 하였으므로 바깥 출입을 할 수 있었던 것이다.
대각교 포교당의 독실한 신자였던 외할머니와 어머니는 용성 스님만이 견성한 최고 스승으로 모시고 있던 터라 생불님이 오셨다 하니 바싹 호기심은 동했지만 무엇보다도 큰이모가 어디 마음을 의지할 데가 있어야겠다고 생각하던 중이었다. 큰이모는 평소 절에는 늙은이나 다니는 곳이라 하고 불교에는 뜻이 없다. 좀 다른 종교가 필요했던 것이다.
그날은 1924년(원기 9년) 음력 스므엿세날이었는데 외할머니가 앞장을 섰고 두 딸(어머니와 큰이모)이 뒤따라서 창신동엘 갔다. 나는 그 이틀 뒤에 어머니가 같이 가자고 해서 아픈 몸에도 불구하고 따라 나섰다.
우리가 찾아간 창신동은 동대문 밖 조용한 산에 위치한 10여 간의 정갈하고 아담한 초가집이었는데 이 집은 이동진화(李東震華) 씨가 수양을 하기 위해 별도로 마련한 수도채였다. 11월 24일 음력으로 시월여드렛날 내가 전라도에서 오신 생불님을 처음 뵌 인상은 이러했다. 우람한 체구에 얼굴에 광명이 나서 무어라 말할 수 없는 원만하고 좋은 얼굴이었다. 하여튼 보통사람과는 달랐다. 그런데 체격에 맞지 않게 옷을 입으셨다.(중략)
그분은 앞으로 더 좋은 인연을 맺기 위해 법명(法名)을 지어주겠다며 속명을 말해보라는 것이었다.
그러나 외할머니와 어머니는 대각사 포교당 백용성 스님의 제자로 민대각화(民大覺華), 이원각화(李圓覺華)라는 불명(佛名)까지 있었다. 어머니와 할머니는 사실을 다 이야기하고 법명 받기를 사양하며 큰이모에게 법명을 내려주시라고 부탁을 올렸다. 그래서 그분은 큰이모에게 공주(共珠)라는 법명을 내렸고 모든 사람이 함께 보는 구슬이 되어 세계를 위해 큰일 해주기 바란다는 요지의 법문까지 내려 주었다. 큰이모는 감격을 하였다. 이윽고 내 차례가 돌아왔다. 그분은 내게 물었다. (중략)
큰이모를 제외하고 우리는 그분의 제자가 되지 않았다. 나는 어쩐지 서운하였다. 집으로 돌아오는 길에 할머니는 큰이모에게 말하였다.
“그분이 너하고는 인연이 깊나 보다. 전라도 사람은 믿기 어려운 줄 알았는데 그분은 보통 분이 아니고 매우 훌륭해 보이더라. 눈에 광채가 나고, 얼굴이 훤하고, 자비스럽고, 해학도 많고, 너에게 좋은 선생이 될 것 같다.”
우리는 그분을 무어라 부르기 마땅찮아 막연히 「그분」이라 하였는데 아무래도 그분과 인연을 걸지 못한 것이 서운하였다. 하나, 우리는 자타가 다 알아주는 용성 스님 제자가 아닌가.
정말 우리는 독실한 불교신자였다. 절에 지키는 것은 한 가지라도 범하지 않고 지켰다. 평소에도 육류라곤 입에 대지도 않았고 한 달에 열흘씩 꼭 십재일(十齋日)을 엄수하였고, 육경진(六庚辰)이라고 밤에 잠을 안 자고 정진을 하였다. 또 해마다 정월, 오월, 구월이면은 초하루와 보름에는 하루 한 끼밖에 먹지 않는 일중(日中)을 지켰다.
이때까지 우리는 용성 스님 한 분만 견성한 큰스님인 줄 알고 지냈는데 전라도 생불님을 뵙고 부터는 자꾸 비교해서 보게 되었다.
할머니와 어머니는 큰이모의 인도로 그 이듬해(원기 10년) 2월 6일(음력 정월 열사흗날) 정식으로 대종사님의 제자가 되어 민자연화(閔自然華), 이성각(李性覺)이라는 법명을 받았고, 나는 그해 가을 11월 9일(음력 시월 열나흗날) 어머니의 인도로 영신(永信)이라는 법명을 받고 불법연구회에 입회하였다. (중략)
우리는 입회를 하고 난 뒤에도 포교당에 계속 다니며 종사님 가르침을 받았다. 대각교 포교당을 우리는 「교당」이라 불렀는데 좀 등한하기 시작하자 신도들 사이에 우리가 「신불교」에 다닌다는 소문이 났다. 근 20년간 정이 들대로 든데다 용성 스님을 「스님 할아버지」로 모시기까지 하면서 절에 아예 나가지 않는다는 것은 나는 마음에 켕겼다. 그래서 「신불교」 「구불교」 양쪽을 다니다 보니 자연 비교도 되고 여러 가지 생각이 들었다.
하루는 종사님께서 엄중하게 명하셨다.
“거기는 떼라.”
나는 퍽 섭섭했다. 거기도 가고 여기도 오면 좋을 텐데, 늘 가던 곳인데 끊어버리면 괜찮을까, 걱정을 했다.
“그 죄는 내가 다 받을텡케 나한테 일임하라.”
종사님께서 책임을 진다고 하셨다.
그 뒤부터 우리가 아주 교당(절)에 나가질 않자 대각교 신자 백여 명이 찾아오는 소동까지 벌어졌어도 우리는 절에 다니지 않았다.
불교와 왕래를 끊고 종사님 가르침을 받들게 되면서 먼저 우리 모녀의 의식 생활에 변화를 가져왔다.
절에 공을 드리러 갈 때에는 으레 소복을 입고 다녔는데 종사님께서 이것을 보고 회색 옷을 입으라 하여 개량하였고, 육류라면 입에 대지도 않던 것도,F“니가 나중에 어느 회원 집에 가서 고기반찬이 나왔는데 이것도 안 먹고 저것도 안 먹고 하면 어떻게 교화하겠느냐.”
“하지만 부처님께 고기 안 먹기로 맹서하였는데 죄를 지으면 어떡해요.”
“죄는 내가 맡을텡케 먹어라.”
이후로 나는 무슨 음식이든 가리지 않고 먹었다. 그때는 종사님에 대한 일정한 호칭이 없어 그냥 용건만 말하곤 하였는데 이 무렵 우리는 「당신님」이라 불렀다.
원기 11년 여름 경성 초대 교무로 송도성 교무가 부임하였다. 동진화 씨가 창신동 수양채를 희사함으로써 불법연구회 출장소가 성립되었고 신임 교무로 약관 20세의 예기 있는 청년이 부임한 것이다.
산거일기
나의 인생, 나의 불교
김달진, 『산거일기』(1990, 세계사), pp.234-245.
0001_0038_b_01L내 나이 13세 때(1920) 고향(경남 창원군)의 계광(啓光)보통학교를 졸업하고 서울에 상경, 중앙고교를 다녔으나 신병으로 중단하였다. 고향에서 휴양하다가 서울 경신(儆新)중학에 진학하였으나 4학년 때 일본인 영어 선생에 대한 추방운동을 주동한 연유로 퇴학당하고 말았다.
고향에 돌아온 나는 민족 교육, 항일 교육이란 이유로 조선 총독부에 의해 폐교될 때까지 모교이면서도 기독교 계통인 계광중학교에서 7년 동안 교편을 잡고 있었다. 일본에서 고문(高文)에 합격한 형으로부터는 동경으로 유학 오라는 편지가 자주 있었지만 거기에는 별 뜻이 없었고, 일본 문학전집과 세계대사상전집 등을 섭렵하느라 바쁜 나날을 보내고 있었다.
그러던 어느날 밤, 찢어진 벽지 사이의 초벌 신문지에서 뚜렷이 보이는 〈佛〉자를 발견하는 순간 나는 섬광처럼 마음속의 무엇인가에 강렬한 자극을 받았다. 이것은 막연하나마 어떤 새로운 세계에 대한 무조건적인 절대(絶對)에의 귀의(歸依) 같은 황홀경이 아니었던가 하고 생각된다. 그후부터 우리 배달민족에 대한 하나님의 가호만을 기원하던 예배당(교회)을 멀리하게 되었고, 드디어 1933년 늦가을 선친의 심부〈p.234〉름 가서 받은 소작료를 여비로 삼아 부모 처자를 버리고 고향, 김해(金海)를 떠났다.
강릉을 거쳐 동해안을 따라 올라가다 눈을 만나 겨울을 지내고 이듬해 봄 금강산 유점사(楡岾寺)에 도착한 나는 석가탄일인 4월 초파일(음) 김운악(金雲岳) 주지스님을 은사(恩師)로 애지중지하던 머리를 깎아버렸다.
나는 원래 산을 좋아했다. 이것이 간접적인 입산(入山) 동기가 되었는지도 모르겠으나 삭도(削刀)는 구렁이같이 흉스러운 내 자신의 집착성(執着性)에 대한 반발이 아니었나 싶다.
장삼을 입고 합장을 하였을 때 내심(內心)의 정제(整齊)에서 느껴지는 화평한 심경 ― 이것은 높고 아름다운 덕(德)인 양 나를 황홀한 경지로 이끄는 듯하였다. 외양의 단정함이 나를 기쁜 마음으로 침잠시키고 무한한 가능성의 세계로 나를 유혹하는 경지는 오랜 신(信)·해(解)·행(行)·증(證)을 겪은 뒤 환속한 지금의 나에게도 불가사의하게 느껴지곤 한다.
그해 유점사에서는 변설호(邊雪醐) 스님으로부터 능엄경(楞嚴經)에 대한 법문(法門)을 열심히 들었고, 다음해(1935)에는 백용성(白龍城) 스님이 창립한 항일불교단체인 대각교(大覺敎)가 운영하는 화과원(華果院 : 함양 백운산)에서 반선(半禪) 반농(半農)의 수도생활을 하면서 용성 스님이 번역한 화엄경(華嚴經)의 윤문(潤文)에 전심전력하였다.
3·1독립선언 33인의 한 분인 용성 스님이 화과원(華果院)이라 이름한 것은 깊은 불교적 뜻이 있었다.
불화엄(佛華嚴)이란 말이 있다. 이에 앞서 대방광(大方廣)이란 무엇인가? 여기에는 열 가지 의문(義門)이 있는바 요는 일심법계(一心法界)와 체용(體用)법계가 광대무변하다는 뜻에서 대방광(大方廣)이라 이름한 것이고 불화엄의 불(佛)은 대방광의 무진(無盡)법계 이치를 증명하신 화엄경의 교주 비로자나불(毗盧遮那佛)을 가리키는 것이다.〈p.235〉 또 만덕(萬德)의 과체(果體)를 성취한 인행(因行)을 꽃에 비유하면서 인위(因位)의 만행(萬行)을 고루 갖춘 불과(佛果)가 장엄(莊嚴)하다는 의미에서 불엄이라 일컫는 것이다.
〈화(華)는 보살의 만행(萬行)을 꽃에 비유함으로써 열매를 맺는 작용이 있음을 뜻한다〉는 글이 있다. 이것은 감과(感果)의 능력이 있는 행(行)이 안과 밖이 둘이면서 둘이 아닌 이치를 밝힌 것이며 아울러 법(法)으로서 사(事)에 의학하는 것이므로 화(華)라 하는 것이다.
화(華)를 인행(因行)과 비유하는 것은 참으로 광대무변의 깊은 진리가 있다 할 것이다. 꽃에는 피어나기 시작하는 화(華), 화(華)와 열매[實]까지의 중간에 해당하는 생과(生果)의 화(華), 그리고 화실(華實)의 때인 장과(莊果)의 화(華) 등 세 가지가 있다. 이렇게 볼 때 용성 스님이 화과원이라 이름하여 백운산에 선농(禪農)을 병행하는 항일 불교단체인 대각교를 창시하고 경제적 자립상태에서 장과(莊果)=화과(華果)의 참뜻인 인과상즉무애(因果相即無碍)를 몸소 후진들에게 교시하신 것은 불교사뿐만 아니라 역사적으로도 높이 평가되어야 할 것이다.
용성 스님은 조국의 광복을 5년 앞둔 1940년 77세를 일기로 입적하셨는데, 화엄경 번역 외에도 『귀원정종(歸源正宗)』, 『각해일륜(覺海日輪)』, 『수심론(修心論)』 등 주옥 같은 저서를 남기셨다. 화과원에서 화엄경에 심취하여 윤문(潤文)에 정진하고 있을 때 문득 고향 소식이 궁금해지면서 아무리 참선(參禪)을 하여도 마음의 평정을 찾을 길이 없어 고향에 들렀다. 뜻밖에도 내가 고향에 돌아온 다음날 아내의 임종을 맞았다. 불가(佛家)의 무상관(無常觀)을 모르는 바 아니었으나 나에겐 크나큰 충격이 아닐 수 없었다.
고향에서 아내의 삼우제(三虞祭)를 맞은 나는 「낙월(落月)」이라는 시를 지었고 그 시는 『조선일보』(1936.2)에 발표되었다.〈p.236〉

落 月

눈섶 끝에 안갯발처럼 떨어지는 어둠
별이 하늘에 얼어붙은 밤 들길 우에

기울은 달 남은 빛마저 사라지는
하늘ㅅ가를 바래기는 외로운 심사어니

돌이키매 그림자 문득 잃어졌네
눈 앞 幻像 넘어 어둠은 쌓여

고달픈 걸음 몇 걸음 걷고 서도
휘파람 멋적어 안 불리네

細모래밭에 쏟은 물발처럼
슬픔에 폭 먹히지 않는 내 마음의 슬픔

찬바람 검은 周衣자락을 날리는데
나는 그의 生日날을 외우지 못하고나!

화과원에 다시 돌아온 나는 유점사의 김운악(金雲岳) 스님으로부터 공비생(公費生)으로 불교전문학교에 입학하라는 전갈을 받았다. 나는 용성 스님의 허락을 쾌히 받고서 불전(佛專)에 입학하였다.(1936.4)
여기에서 서정주(徐廷柱)·김어수(金魚水) 등 친구를 만나게 되었고 서정주·김동리·오장환 등과 〈시인부락(詩人部落)〉 동인이 되었으며 그 창간호(1936년 11월)에 「황혼(黃昏)」 등을 게재하였다.〈p.237〉

黃 昏

古蒼한 작은 庭園에 黃昏이 내려
무심히 어루만지는 가슴이 끝끝내 여위다.

枯林 속의 午後 그림자처럼 허렁한 意慾이매
근심발은 灰色 空氣보다 가벼히 稠密하다.

저 밑뿌리에 고달픈 머리칼은 어즈러히 길고
고독을 안은 愛戀의 한숨은 혼자 날카로워……

처마 끝에 거미 한 마리 어둔 찬비에 젖는데
아 어디어디 빨간 장미꽃 한송이 없느냐!

3년간 전문학교 시절은 나에게 정신적, 학문적으로뿐 아니라 문학적으로 많은 교우 관계를 갖게 하였다.
유점사에 돌아온 나는 법무(法務)로 있으면서 70여 사찰의 본사(本寺), 말사(末寺)를 4년간 두루 다니면서 강론을 했다. 이 강론 때문인지 왜경의 요시찰(要視察)이 점점 강화되면서 나는 만주 북간도(北間島)에 있는 용성 스님이 세운 대각교 농장을 찾기로 하였다(1941).
북간도 용정(龍井)에서는 『싹』이라는 잡지를 발간하고 있던 소설가 안수길(安壽吉) 씨를 만나 시를 게재하기로 하였다. 이때의 작품으로는 「용정(龍井)」, 「뜰」, 「향수」 등 5편이 있다.〈p.238〉

龍 井

車窓 밖 豆滿江이 너무 빨러 섭섭했다.
흐린 하늘 落葉이 날리는 늦가을 午後
馬車바퀴가 길을 내는 찔걱찔걱한 검은 진흙길
흰 조히쪽으로 네 귀에 어찔러 발라놓은
창경 창경
알 수 없는 말소리가 귓가로 지나가고
때묻은 검은 다·부·산·즈·자락이 나부끼고
어디서 호떡 굽는 냄새가 난다.

시악시요 아 異國의 젊은 시악시요
아장아장 걸어오는 쪼막발 시악시요
흰 紛이 고루 먹히지 않은 살찐 얼굴
당신은 저 넓은 들이 슬프지 않습니까
저 하늘 바람이 슬프지 않습니까
黃昏 길거리로 허렁허렁 헤매이는 흰옷자락 그림자는
서른 내 가슴에 허렁허렁 떠오르는 조상네의 그림자 ―

나는 江南 제비 새끼처럼
새론 옛 故鄕을 찾아왔거니
난생 처음으로 馬車도 타 보았다.
胡弓 소리도 들어보았다.
어디 가서 나 혼자라도 빼一酒 한잔 마시고 싶고나.〈p.239〉

용성 스님이 입적하신 뒤, 북간도 대각교 농장은 운영상 어려움이 많았다. 1년간 북간도 생활을 끝내고, 금강산에 돌아온 나는 유점사에서 꿈에 그리던 조국해방을 맞았다.
다음은 광복을 맞아 지은 시로서 그 당시 광복의 기쁨을 나누기 위해 반송된 시이기도 하다.

아 침

아, 어디서 오는 燦然한 저 빛이뇨?
동쪽 하늘 장미빛에 물들었다.

천 길, 만 길 깊은 바다 밑에
긴 밤을 어둠 속에 몸부림치며
큰 熱을 가슴 속에 쌓고 달구었거니……

집집마다 추녀 끝에 태극기 나부낀다.
거리마다 地軸을 울리는 喊聲
오늘 이 땅 山川은 크게 웃었다.

진흙 밭 밑에서도 眞理는 빛나고,
正義는 무덤 속에서도
그 향기 하늘을 꿰뚫는다거니.

이제 天上에는 神의 祝福의 饗宴이 열리리,
地下의 魂靈들도
하마 각기 제자리로 돌아가니,〈p.240〉

좁아도 내 땅, 가난해도 내 살림……
괴롭고 병든 목숨
살아온 값이 오늘에 있었다.

아, 어디서 오는 燦然한 저 빛이뇨?
어둠 속에서 피어난 꽃송이다.
(해방을 맞이하는 날)

유점사에 있을 때 보았던 주련(柱聯)의 글귀 중에 아직도 잊혀지지 않는 것이 있다. 이것은 나의 좌우명과도 같은 것이다.

處所綠揚堪繫馬
家所門路透長安
간 곳마다 푸른 버들 말 맬 수 있고
집집 문앞 길은 서울로 통해 있다.

花欲開時方吐香
水成潭處便無聲
꽃은 피려 할 때 한창 향기 토하고
물은 못이 될 때 소리가 없다.

日用事重別
唯吾自偶偕
날마다 하는 일 별것이 없고
오직 내 자신만을 벗할 뿐이라
(인생의 마무리에 가서는 자기만이 자기의 벗이란 뜻)〈p.241〉

8·15광복 후 상경한 나는 춘원(春園) 선생을 찾았다. 이 우연한 방문이 인연이 되어 춘원 선생의 소개로 『동아일보』 주간이었던 설의식(薛義植) 선생을 알게 되어 편집부 기자로 근무하게 되었다. 그러나 해방 후의 정치적 와중에서 중생활을 해온 나에겐 신문기자가 적소(適所)가 아니라고 판단되어, 그뒤 낙향하여 16년간(1947~62) 교육계에 봉직한 것이다.
교직생활을 정년퇴직한 다음 나에게 결정적인 인생의 전기가 찾아왔다.
광능에 있는 봉선사(奉先寺)에서 이운허(李耘虛) 스님을 만나 뵙게 된 것이다.
나는 운허 스님을 법사로 모시고 동국역경원(譯經院)의 대장경 번역사업에 남은 여생을 바치기로 작심하였다.
나는 오전 중에 불경을 암송할 때가 많았는데 하루 평균 20 내지 30매 정도 번역하여 20여 년 계속하였으니, 이 사업이야말로 나의 삶의 전부가 되었다고 해도 과언이 아니다.
내 나름대로 정성과 심혈을 기울여온 것은 사실이지만 부처님의 본 뜻을 얼마나 정확히 전하였는지 지금도 두려움이 앞서지 않을 수 없다.
다음은 최근의 시 한 편 ―

등을 밀리며

오늘은 별나게도
지난 일이 자꾸 생각키운다 ―.
詩도 써 보았다.
言論人도 접장질도 조금 해 보았다.〈p.242〉

저 금강산으로 멀리 도망쳐
제법 오래 중노릇도 해 봤는데
그 어느 하나도 바로 된 것 없었다 ―.

가만히 집을 나와
오늘도 그 허름한 술집으로 가나니
어스름 첫봄 黃昏
뒷산 찬 바람에 등을 밀리며 ―.

나의 시작(詩作) 연도가 1929년이니까 거의 50년 전이 된다. 당시의 순수 문예지였던 『文芸公論』에 무애 양주동(無涯 梁柱東)의 선고(選考)로 처음 작품이 발표되었고, 그 뒤 『동아일보』, 『조선일보』 등 일제 때의 민족지를 비롯하여 시 전문지인 『시화(詩花)』, 동인지였던 『시인부락(詩人部落)』, 『죽순(竹筍)』 그리고 시집 『청시(靑杮)』에 계속 발표되었다.
나에게 있어서 〈시란 무엇인가?〉 하고 자문자답할 때가 간혹 있다.
나의 시세계는 사상이나 관념과는 거리가 먼 것이 사실이다. 나는 대부분의 시적 발상을 자연경관에서 얻고 있다. 첫 시집 『청시(靑杮)』(1941)에서 나는 나의 시를 다음과 같이 쓴 일이 있다.

六월의 꿈이 빛나는 작은 뜰을
이제 微風이 지나간 뒤
감나무 가지가 흔들리우고
살찐 暗綠色 잎새 속으로
보이는 열매는 아직 푸르다.


6월이 있고, 뜰이 있고, 미풍이 있고, 감나무가 있고, 그리고 푸른〈p.243〉 열매가 있으니 더 이상 무엇이 필요하랴. 여기에 어떤 관념이나 사상을 도입할 필요가 있을까. 어떤 것이 더 본연의 태도에 가까운지 생각해 본다.
얼마 전에 김동리(金東里) 님이 지적한 대로 명명(命名) 이전의 자연 그대로라고나 할지 모르겠다.
내 나이 이제 80 가까이 되었으니 때때로 〈죽음〉에 대하여 생각할 때가 있다. 애당초 우리 인생의 삶이 시작되었을 때부터 죽음도 공존해 온 것이다. 삶의 연속 속에는 죽음도 동행해 왔다고 볼 수 있기 때문이다. 그러기에 우리가 순간순간의 삶을 만나고 있듯이 어느 시점에 가서는 죽음과도 자연스럽게 만난다는 것은 극히 자연스런 순리가 아니겠는가?
〈삶〉과 〈죽음〉의 공존 속에서 살아온 우리 인간이 〈죽음〉이 왔을 때 조용히 마중하는 참선의 정신자세가 필요하지 않을까 하고 생각해 본다.

그리는 세계 있기에

그리는 세계 있기에
그 세계 위하여,

生의 나무의
뿌리로 살자.

넓게 굳세게,
또 깊게,〈p.244〉

어둠의 苦惱 속을
파고 들어,

모든 才氣와 賢明 앞에
하나 어리석은 침묵으로 ―

그 어느 劫外의 하늘 아래
찬란히 피어나는 꽃과,

익어가는 열매
멀리 바라보면서 ―

너무나도 너절한 말이 많았구나!
그러면서 남보고 말 많다고 떠들고 있으니 ―咄!

『불교사상』 7호(1984.6) 〈p.245.〉
慈悲菩薩의 길
古庵大宗師 行狀
윤고암, 『慈悲菩薩의 길』(1990, 불교영상회보사).
韓國佛敎의 큰별
日陀(海印寺律主)
0001_0044_b_01L큰스님께서는 九十年前 一八九九年 己亥年 十月 五日에 京畿道 坡州郡 積城面 食峴里 425에서 楊州尹氏家門에 誕生하셨습니다.
父親은 蓮潭居士 楊州尹公 炆이시고 母親은 河東鄭氏 原幸이셨습니다. 어릴 때 이름을 뜻 志자 호걸 豪자 志豪라 하였고 洞里 學塾에서 漢學을 배워 읽어 마쳤습니다.
一九一七(丁已)年, 十九歲가 되시던 해에 出家하시어 本海印寺에 入山, 當代의 善知識이신 金霽山和尙을 恩師로 方漢岩律師를 戒師로 得度受戒하였으니 「祥彦」이라는 法名을 받았습니다.
一代時敎를 履修하며 侍師를 마친 다음 一九二二年에 大小乘戒를 受持하고, 堆雪堂禪院에 들어가 首先安居를 始作한 後로, 天下名山大刹에 頭陀行脚하시며 尋師訪道하실제 五台山 方漢岩禪師, 金剛山 摩訶衍에 薛石友和尙, 德崇山 定慧寺 滿空禪師等 會下에 修禪安居를 하셨으며 安邊釋王寺 內院禪院에서 申慧月禪師를 모시고 精進하다가 크게 心要를 얻었으니 頌을 하였으되,

禪定의 三眛는 壺中에 日月이요,
涼風이 吹來하니 胸中이 無事라.
선정삼매는 단지 속에 일월 같고
시원한 바람 부니 가슴속에 일이 없다.

라고 하셨습니다.

이로부터 諸方禪院에 禪機를 드날리며 安居精進하시더니, 千聖禪院에서 白龍城和尙을 親覲하고 擧揚하였으니,
『般若의 空理는 正眼으로 봄이라』는 말씀에 깨침이 있었다고 합니다. 그리고
『趙州無字 十種病에 걸리지 않으려면 但行劍上路라(다만 칼날 위에 길을 간다.)』라고 對答하셨고,
『世尊拈花 微笑消息은 獅子窟中에 無異獸』라고 答하셨으며 다시
『六祖스님의 風動幡動 心動意旨는 三拜올리고 天高地厚라(하늘은 높고 땅은 두텁다.)』
『家風은 柱杖三下』라 하시니,
龍城大和尙께서 『善哉라 萬古風月이로다』 하시고 偈頌을 傳하시되,

萬古에 風月을 知音者誰오
古庵을 獨對하니 風月이 萬古로다.
만고에 풍월을 듣는 이 누구런가
고암을 홀로 대하니 풍월이 만고로다.

하시고,

佛祖元不會 掉頭吾不知
雲門胡餠團 鎭州蘿蔔長
부처와 조사도 원래 알지 못하고 머리를 흔들며 나도 또한 알지 못하며
운문의 호떡은 둥글고 진주의 무우는 길기도 하네.

라는 傳法偈를 내려 印可하고 古庵堂이라는 法號를 내리셨습니다.
一九四四年에는 宗團으로부터 드디어 「大禪師」의 法階를 稟受하였으며 이어서 五二年에는 「大宗師」의 法階를 稟受하셨습니다. 큰스님이 가시는 곳마다 法會聽衆이 法堂에 넘쳤으며, 億千衆生이 큰스님의 說法에 感化를 받지 않은 적이 없었습니다.
一九六七年에 大韓佛敎曹溪宗 第三代宗正에 推戴되셨으며 一九七◯年에는 海印叢林方丈을 兼任하시어 天下衲子를 提接하기도 하셨습니다. 一九七二年에는 第四代宗正에 再任하셨으며 七八年에는 第六代宗正에 다시 就任하셨으니, 큰스님의 德化는 恒常하시는 法門과 같이 「하늘이 능히 덮지 못하고 땅이 능히 실지 못한다.」 하였습니다.
有時에는 金剛戒壇에 傳戒大和尙이 되시어 千佛의 大戒를 滿天下 佛子에게 傳授하시어 法海가 滿天하여 天雨四華하셨으며, 有時에는 梵魚寺 神興寺 等 祖室로 住錫하시며 本分事를 擧揚하시니, 큰스님 뵙는 이나 法門을 듣는 이가 모두 다 詢詢慈悲와 切切之心에 感動하였습니다.
一九七六年 以後에는 큰스님의 高齡 古稀가 지나고 八旬이 가까우심에도 不拘하고 老益壯하시어 高名이 萬里他國 海外에까지 미치니 美國各地와 歐羅巴 各國의 招請을 받아 東西世界를 一周하시면서 布敎傳道로 甘露法雨를 뿌려 世界一花의 祥瑞를 示現하셨습니다.
一九八◯年初에는 大韓民國 國政諮問 委員에 推戴되어 國事에 應하시기도 하셨습니다. 큰스님께서는 『金屑이 雖貴나 落眼則病이라(금가루가 비록 귀한 것이기는 하나 눈에 들어가면 병이 된다.)』는 法門을 자주 하셨고,
『守本眞心이 勝念十方諸佛이라(본분을 잃지 않고 참마음을 지키는 것이 제일이다.)』 하시고, 恒常 『心淨國土淨(마음이 깨끗하면 나라도 깨끗하다.)』을 말씀하시며, 健康하시고 端正하시고, 언제나 깨끗하게 精進하는 姿勢를 보이셨습니다.
큰스님이 世壽 九十을 바라보면서 大覺寺 聖殿에서 급히 大衆을 모아놓고 鶴山大元에게 傳法儀式을 베푸신 후 次次 氣力이 衰微하시는 듯하더니, 門徒들을 돌아보시고, 前後事를 두루 말씀하시며, 『好住世間하라 猶如影響이니라(조심해서 살거라 인과는 분명하니라.)』 하시었다.
큰스님께서 晩年에 美國에서 布敎 旅行을 하시다가 歸國하게 됐을 때다. 하루는 제자 大元이 病室을 찾아가 스승께 물었다. 「스님 이때를 당해 저희들에게 한 말씀 보여 주십시오.」 그러자 스님은 눈을 크게 뜨고 눈동자를 한번 굴린 뒤 주먹을 불끈 쥐고 위로 들어 보였다. 大元이 「예, 스님!」 하고 三拜를 올렸다. 그러자 스님은 주먹을 거두시었다.
伽倻山色 丹楓이 頂點을 이룬 一九八八年 十月二十五日(陰九月十五日)午後八時
怡然入寂하시니 世壽九十 法臘 七十一세였다. 闍維法席에
數萬人이 泣吊하였으며 海印寺 火浴場으로 茶毘舍利一十六果顆를 얻었다. 伽倻山 龍塔禪院 等地에 塔을 세워 收藏하리라 한다.

佛紀2533年 己巳 沙門日陀 謹撰
雲水生涯
윤고암, 『慈悲菩薩의 길』(1990, 불교영상회보사), pp.370-377.
宿緣인지 중만 보면 따라가고 싶었다.
0001_0047_a_01L철 난 때부터―十五才 때였다―議政府 가는 길에 멀리 道峰山을 바라보고 마음에 퍽이나 기뻐했었다.
十七才 되던 늦은 여름 偶然히 乞僧을 만났는데 乞僧을 따라 道峰山에 올라가서 回龍寺에 一宿, 하룻밤을 절에서 자니 아직 白夜의 몸이지만 마음만은 중이 다 된 것 같았다. 홀가분한 마음으로 乞僧과 作別하고 서울로 들어오다가 마침 華溪寺를 지나게 되었다. 그리로 잠깐 들어가보니 畵閣寶殿樓 마루에 老丈僧 六, 七人이 북광쇠를 울리면서 念佛을 외고 있다. 마음이 어쩐지 좋아 금방 부처님을 뵌 것 같은 心情이었다. 當時 住持는 全越海和尙으로서 나이 七十이나 된 老僧이 다 반가히 맞아주며 여러 衆僧과 더불어 좋아한다. 스님네들은 넌지시 내 心情을 알아보고 한번 절에 있어보라 하기에 數個月 동안 같이 있든 中, 山內三聖庵을 重修하게 되어 그곳에 심부름도 하고 工夫도 하게 되었다. 三聖庵이 完成되자,〈p.370〉 春山和尙이 住居하게 되었는데 나도 같이 있으라 하기에 며칠 있어 보니까, 마음이 영 갑갑하여 다른 데를 가고 싶었다.
作定을 하고 절을 나와 정처 없이 떠났다. 먼저 서울로 들어가 各 寺刹마다 들러 며칠씩 구경을 했다.
그 後, 東大門 밖에 있는 말집에 있으면서 가끔 近處의 절 求景을 하던 中, 十八才 되는 가을, 市內 寺洞을 지나가는데 사람들이 布敎堂이라 일러주는 작은 절에 臨濟宗 간판이 나붙었고 사람들이 많이 모였다. 들어가 보니 뚱뚱하고 厚德한 스님 한분이 부처님 말씀을 하신다.(註, 이 스님이 師의 스승이신 白龍城 大宗師) 속으로 나도 저리 공부를 해봤으면 하고 흠모했지만 그 날은 돌아오고, 間或 生覺이 나면 몇 달 만에 한번씩 찾아가서 말씀을 듣다가, 十九才 되는 여름엔 每日 가서 듣는데, 禪師 말씀이, 金剛經 法門이라 한다.
한번은 質問했다.
『金剛經 말씀이 모두 비여 空했다,
모든 形相이 꿈과 같다 하니 이는
어찌 함입니까?』
禪師께서 잠깐 있다가(良久)
『金剛般若다.』
하고 靑天霹靂 같은 한마디를 던진다.
큰소리에 깜짝 놀라 電氣를 만진 듯 퍼뜩 새 精神이 돌아왔다.
그 後부터는 극진히 禮拜하고 俗人으로 있어도 法師스님으로 모실 것이며, 僧이 되어도 法師스님으로 모실 것이라고 맘 속으로 깊이 다짐했다. 그 卽時 스님을 따라 望月寺에 가서 있다가 얼마 후 海印寺로 내려왔다.〈p.371〉
海印寺에 와보니, 堆雪堂에 霽山스님이 계시는데 道德과 律行과 用心이 훌륭하다고 한다. 몇 달 있으면서 점점 낯을 익혀가지고, 한번은 霽山스님께 중 되기를 要求했더니 스님 말씀이, 내 仔細한 來歷을 묻고 龍城스님께 發心이 되었으니 그 스님께 중이 되라 하신다. 나는 答하되 그 스님을 일찌기 法師스님으로 모시겠다고 마음 속 깊이 決心한 바이라, 스님께서 중을 만들어 주셔야 겠다고 간청했다. 大衆스님들의 말을 들으니 중 되는 節次는 먼저 恩師를 定하고 後에 法師를 定하는 法이라 한다.
그런 얼마 후에는 드디어 霽山스님을 恩師로 삼고 龍城스님을 法師로 맘속 깊이 作定하여 因緣을 맺었다. 이렇게 처음 海印寺에서 중이 되었을 때는 沙彌科를 履修했다.
그 後 霽山스님께서 直指寺로 옮기시매 나는 바야흐로 雲水길을 떠나게 되었다. 그해 겨울은 開城으로 올라가 開城 華藏寺에서 冬結制나고, 二十一才 봄엔 三·一運動이 터져 月餘間 大衆과 함께 萬歲運動을 하였다.
日警이 血眼이 되어 虐殺을 恣行하자 몸을 피하여 누더기 옷을 입고, 짚신을 신고, 걸망을 지고, 江原道 산속으로 들어갔다. 鐵原 寶蓋山 深源寺 千佛殿과 石坮地藏보살을 參拜했다.
三防藥水를 먹고 발걸음을 돌려 安邊釋王寺를 찾아갔다.
案內를 받아 各 法堂을 參拜하는데 五百羅漢殿에 이르러서는 五百羅漢님의 由來를 듣게 되었다.
李太祖께서 이곳에 들어와 當時 이 위 內院庵터에서 修道하시던 無學스님을 訪問하고 將次 登極할 意思를 表明함과 同時에 (꿈에 解說해 달라고 했다 함.) 國師로 임해주실 것을〈p.372〉 간청하는 한편, 또 大刹을 創建해주겠다고 말했다 한다. 後에 果然 太祖가 登極하여 釋王寺를 建築하는데 五百羅漢殿法堂을 세워놓고는, 여기는 北으로 五, 六百里 들어가 있는 吉州 普賢寺에서 五百羅漢님을 한 분씩 업어다 모셨다 한다. 한 분씩 등에 업고 六百里 길이라, 하도 지루하여 맨 끝 두분은 한꺼번에 두분을 업고 오는 途中, 한 분이 그만 怒하여 空中에 神通을 나투어 날아가 버렸다. 날아가서 平安道妙香山 普賢寺 下毘盧庵의 獨聖님으로 定坐하였다 한다.
羅漢님을 모시고 가던 스님은 곧 後悔하였지만 때는 이미 늦어 할 수 없이 釋王寺 羅漢殿에는 一座를 비여두고 마지는 다른 羅漢님과 같이 精誠껏 올렸다 한다. 案內者는 나에게 마침 羅漢殿 앞에 있는 네모 반듯한 큰 盤石 하나를 가리키며 羅漢님을 놓친 스님이 저 위에 올라가서 每日 五百拜씩 五百日 동안 기도하며 참회했다고 한다.
그 말을 들으니 修道 成佛하려면 몇 生을 두고 나의 지금 信心의 百倍, 千倍의 功德을 닦아야겠다고 크게 感激하였다.
옛날 無學스님께서 住錫하시던 터는 內院庵 禪院이 되어 있었다. 數月間留連하면서, 山內 암자를 구경하고 釋王寺를 떠나 元山 明沙十里를 가보았다.
그 後, 발걸음을 돌려 金剛山을 向해 내려오는데 東海邊이라 바람이 每日 모래를 싣고 몰아닥치는 故로 길은 모래가 쌓여 눈처럼 덮였다. 行步가 어렵고 困難한데다 버선과 짚신조차 떨어져 발은 뱀에게 물린 것처럼 퉁퉁 부었다. 해가 지면 村落에 들어가 담배연기 자욱한 속에서 눈을 붙인 듯 만 듯 심술궂은 儒生들의 시달림을 받다가 동트기 前에 나선다. 어떤 때는 부르튼 물집을 따고 먹물을 넣느라고 밤에 잠 한〈p.373〉숨 못자는 때도 있었다.
아침 일찍 예닐곱 집을 다니며 밥을 얻어 먹고 남는 것은 싸서 걸망에 넣어가지고 떠난다.
가다가 절이 있으면 二, 三十里씩 찾아들어가 하룻밤 묵고 이튿날은 짚신을 삼아 來日 行步의 準備를 한다. 떠나는 날은 點心을 싸달라고 하여 虛氣를 면했다.
드디어 金剛山. 叢石亭을 求景하고 外金剛 温井里에 當到하여 温川을 했다. 萬物相을 求景하고 神溪寺에 들어가서 普雲庵에 修道하시는 石頭和尙(曉峰宗師의 스승)을 親見했다.
또 普光庵에 가서 崔基南居士가 石佛 조각하는 것을 求景하고 (現在 華溪寺 千佛) 九龍淵瀑布를 觀覽했다.
이번엔 金剛山에서 조금 내려와 高城邑을 거쳐 바로 乾鳳寺에 當到했다. 이곳에서 新羅 때 發徵和尙이 彌陀萬日會를 設置하여, 念佛하던 三十三人이 肉身 騰天했다는 터를 보았을 때는 念佛하면 곧 肉身 登空하는구나 하는 生覺이 들어 身心이 踊躍한다. 菩提庵에 올라가 月餘間 있다가 다시 金剛山 楡岾寺를 向했다.
그곳에는 經學과 律行이 高峻하신 東宣 大和尙(李朝 末의 큰스님, 벽암의 法을 잇는 有名한 講師. 法華會를 오래 主宰하다.)께서 三十, 四十 된 僧侶를 數十名 모아 法華經을 讀誦하고, 講堂에는 數十名 學人이 履歷을 보고 있고, 般若庵禪院에는 十餘名 衲子가 坐禪하고 있었다.
山內 五十三佛을 參拜하고 內金剛摩訶衍으로 넘어가니 五, 六十名 衲子들이 모여 六百部 般若山林法會를 하는데 通度寺 許夢草和尙과 表訓寺 金觀虛和尙께서 午前 午後 說法講經하시며 朝夕으로는 坐禪한다. 參席하여 聽法하고 坐禪〈p.374〉도 하였다. 또 조금 밑에 있는 普德窟에 내려가서 月餘間 기도도 했다.
다시 이번엔 表訓寺로 넘어가서 四集을 배우다가 金剛山을 떠나 雪岳山으로 들어갔다. 山求景을 한 後 神興寺 內院庵禪房에 들어가서 數月間 四集도 배우고 坐禪했다.
다시 雪岳山을 떠나 蔚珍 佛影寺를 거쳐 義城 孤雲寺 金堂禪院恚 들어가서 數月間 四集도 배우고 坐禪도 하고, 겨울을 났다.
二十二才 春에는 孤雲寺를 떠나 八公山 把溪寺에 있는데 太田首座(金烏스님)를 만났고 數日 後에는 雪山 和尙(善知識)과 檀庵和尙이 來寺하여 親見하고 法을 물었다. 다시 八公山을 떠나 大邱 桐華寺 金堂禪院에 가서 雪岩和尙(善知識, 대둔사 義誠의 法號, 玩虎의 法을 이음.)을 親見하고 法을 물었다.
銀海寺를 거쳐 慶州에 到着하여 佛國寺 石窟庵을 참배했다. 또 떠나서 通度寺에 들어가 世尊 頂骨答에 參拜하고 極樂庵에 올라가 南方大善知識 慧月和尙을 親見하고 法을 물었다. 이곳에 여름을 나면서 普光殿에도 往來하며 坐禪했다. 普光殿 祖室 海門스님께 四集을 배우다가 當時 海印寺 住持 李晦光和尙이 서울 貞洞에다 布敎堂을 創設하고 禪室도 한쪽에 마련하여 海門禪師를 祖室로 招請함으로 侍奉을 들기 위해 서울에 따라갔었다. 그곳에서 四集도 배우고 坐禪했다.
二十三才 때는 寶蓋山에 들어가 여름을 난 後 容成講伯으로부터 四敎를 배우다가 望月寺 龍城禪師께서 五, 六十名 衲子를 모아 禪會한다는 所聞을 듣고 그리로 가서 參席하였다.〈p.375〉
틈이 나면 市內鳳翼洞 大覺寺에 가서 四敎를 보았다.
二十四才 봄이었다.
覺皇寺에서는 全國僧侶大會를 數日間 하는데(우리 佛敎를 日本佛敎에 예속시키려는 大會) 한편 禪學院에서는 全國首座가 모여 禪友共濟會를 組織했다.(禪宗行客衲子로는 이것이 첫 모임이다. 數年後 禪理參究院이라 改稱하고 財團法人이 되었으니 至今의 禪學院 財團法人이 그것이다.)
나는 當時 共濟會 五臺山 上院寺禪院支部設定員으로 策定되어 五臺山에 들어갔다. 上院寺에는 河東山 스님이 계셔서, 禪師를 모시고 共濟會支部 禪院을 設定했다. 坐禪도 하고 寂滅寶宮에 들어가 기도도 하며, 四敎도 보다가, 八, 九月頃에 五臺山을 내려와 葛來舍利塔을 參拜하고, 八公山 大乘寺로 갔다.
大乘寺에 가 보니 四部大衆이 모여 七日 法會를 한다. 參席聽法後 回向時는 佛舍利를 친견했다. 다시 金龍寺, 龍門寺, 鳴鳳寺 等을 거쳐 直指寺로 들어가 霽山스님을 모시고 지냈다.
다시 海印寺에 들어가 四敎를 보다가 禮山 定慧寺에 가서 滿空스님을 모시고 山果子話와 茶問答을 하면서 坐禪만으로 겨울을 났다.
다시 그곳을 떠나 서울로 올라가 大覺寺에서 四敎를 보던 中, 白羊寺에서 黃一球氏의 紹介로 雲門庵을 龍城스님께 드린다기에 禪房을 차리기로 合議하고 나는 그 先發隊로 雲門庵에 내려가서 三冬에 四, 五十名 衲子가 勇猛精進했다. 龍城 大宗師主宰下에 河東山, 石庵 錦圃 等의 善知識과 같이 지냈다. 二十六才 되는 甲子年에도 그곳에서 黙言精進했다. 그해 여름을 나고는 雲門庵을 떠나 直指寺에 가서 坐禪했다. 또〈p.376〉 海印寺 堆雪堂에도 와서 坐禪하다가 修道庵 正覺에 가서 田岡禪師와 月松禪伯과 法話問答을 하며 겨울을 났다.
二十七才 春에는 直指寺에 가서 坐禪하다가 여름에 修道庵으로 가니 二十餘名 衲子가 모여 있다. 또 正覺에 가서 海山禪伯, 月松禪伯과 同居하면서 黙言精進하였다.
때에 龍城大宗師께서 午前 智異山 七佛에서 組織한 萬日禪會參禪結社를 望月寺에서 冬節부터 계속한다기에 서울로 올라가니 五, 六十名 衲子가 모여 있다. 薛石友和尙으로 首座를 定하고 鄭雲峰和尙으로 立繩을 定하여 純一하게 精進했다. 全大衆이 午後 不食, 黙言하고 아침 供養은 죽과 찬 두 가지, 巳時는 齊供을 올리고 찬 세 가지로 겨울을 났다. 丙寅年에는 二十八才라, 여름에 萬日禪會를 千聖山 內院寺로 옮기게 되어 四, 五十名 大衆이 精進하는데 나는 黙言 정진하였다.
(一九六七年 九月 月刊 특집원고)〈p.377〉
회명문집
甕城磖子大覺農園-옹성 슈자촌 대각농원에서
『회명문집』(1991, 여래), p.249.
離離禾黍雨初晴
洞待主因久歲經
造化翁藏肥沃土
衷情付與白龍城
이이한 화서에 비가 처음 개었는데
주인을 기다리며 오랜 세월 지나온 듯
조화의 늙은이가 비옥한 땅을 감추었으니
속마음은 아마도 백용성 선사에게 주려는 듯이
(농원의 주인이 백용성 선사였음)
라훌라의 思母曲
울분의 폭발(용성 스님 만남)
김태신, 『라훌라의 思母曲』(上)(1991, 한길사), pp.106-109.
0001_0051_b_01L1학년 2학기 수업을 받기 위해 도쿄로 온 나의 심중은 착잡했다. 차분하지가 못했고, 울분을 느꼈으며, 대수롭지 않은 일에도 곧잘 화를 내곤 했다. 사춘기의 이유없는 반항이 시작된 것일까. 그런 것은 아니었다. 나의 그런 울분은 수덕사행과 연관이 있는 것이었다.
나는 도쿄로 오기 전에 작별인사를 한다는 명목으로 재차 견성암〈p.106〉의 어머니를 찾아갔었다. 도쿄에서 돌아와 중학생 제복을 입고 첫 번째로 찾아갔을 때와는 달리 어머니는 나를 냉담하게 맞았다. 이번에도 물론 이당 아버지께 말씀드리지 않고 찾아간 것이었고, 어머니는 그 점을 호되게 나무랐다.
“너 왜 이렇게 말썽을 부리고 다니느냐? 네가 말없이 이곳으로 오는 행동은 나와 이당 어른과 주위의 여러 사람을 실망시킬 뿐이라는 사실을 왜 모른단 말이냐! 내일 당장 돌아가거라!”
삽교에서 덕산까지 20리요, 덕산서 수덕사까지는 10리다. 수덕사에서 견성암에 이르는 산길도 족히 5리는 된다. 왕복으로 따지면 70릿길이었다. 70리를 걸어야 하는 것을 각오하고 찾아가서 꾸중만 듣고 왔을 뿐이었다. 더욱이 두 번씩이나 말없이 잠행한 나에 대해 이당 아버지는 노기를 터뜨렸다. 수덕사에서 와룡동 집에 도착했을 때는 다시 또 밤중이었다. 대문을 두드려도 열어주지 않았다.
짧은 여름 밤인데 어디 가서 잠깐 눈 못 붙이랴 싶어 와룡동 대문 앞을 물러났다. 나는 피곤하고, 서럽고, 허기에 지쳐, 터벅터벅 걸음을 옮겼다.
와룡동에서 그리 멀지 않은 봉익동(鳳翼洞) 단성사 근처에 대각사(大覺寺)라는 절이 있다. 나는 그 대각사를 찾아갔다. 기미년 독립만세사건 당시의 민족대표 33인 가운데 한 분인 백용성(白龍城) 스님이 조실로 계신 절이었다. 나는 이날 밤 백용성 스님을 처음 뵈었다. 나는 백용성 스님께 내가 이당의 양아들이라는 것과 수덕사를 몰래 다녀왔기 때문에 쫓겨났다는 것을 털어놓았다. 백용성 스님은 심야의 불청객에게 관심을 표명했다.
“수덕사에는 무슨 일로 갔다가 이당의 노여움을 사게 되었느냐?”
나는 일엽 어머니를 만나러 갔다는 것을 얘기해야 좋을지 어떨지 망설였다. 백용성 스님을 납득시키지 못하면 여기서도 쫓겨나게 될는지 모를 일이었다. 나는 진실을 밝히기로 작정했다. 내 이야기를 듣〈p.107〉고 난 백용성 스님이 놀라움을 금치 못하는 표정으로 되물었다.
“네가 일엽의 아들이란 말이냐?”
“……네.”
누구에게도 절대 발설치 말라고 했던 만공 스님의 명을 내가 최초로 어겼다. 나는 간곡히 말했다.
“이 사실은 비밀로 해주십시오.”
고개를 끄덕인 다음 백용성 스님은 공양주 스님을 불러 내가 저녁 식사를 할 수 있도록 조처해주었다. 나는 이렇게 대각사에서 허기를 면하고 잠까지 잘 수가 있었다. 이튿날 아침 공양까지 얻어먹은 다음 나는 백용성 스님께 감사하다는 말씀을 드리고 대각사를 나왔다.
와룡동 집으로 가고 있는 나의 마음은 비장했다. 이번에도 대문을 열어주지 않으면 그 길로 돌아서서 어디 절을 찾아가 중이 되겠다는 생각을 했다. 그러나 아침에 다시 찾은 나에게 대문이 열렸다. 나는 이당 아버지 앞에 무릎을 꿇었다.
“간밤에 어디서 잤느냐? 10분쯤 후에 내가 나가보니 넌 어딘가로 가고 없었다.”
나는 와룡동 대문 앞에서 10분도 기다리지 않고 물러났었던가.
“대각사에서 잤습니다.”
“대각사?”
“네.”
“너 나중에 중이 되려고, 절만 찾아다니는 게냐?”
“잘못했습니다.”
그로부터 도쿄에 갈 때까지 나는 외출을 금지당했고, 정 볼일이 있으면, 이당 아버지는 사람을 동행시키거나 당신이 직접 데리고 다녔다. 이런 생활을 하다가 왔으니 내 심사가 편할 리 없었다. 분출구를 찾지 못해 내 속을 끓이던 울화를 폭발시킬 기회는 개학 직후에 찾아〈p.108〉왔다.〈p.109〉
용성 스님 입적
0001_0053_b_01L김태신, 『라훌라의 思母曲』(上)(1991, 한길사), pp.206-208.
삽교역에서 기차를 타고 경성역에 내렸을 때는 밤이었다. 나는 정해진 코스대로 대각사를 찾아갔다. 낯익은 법사 스님과 공양주 스님이 나를 맞아주었다.
“백용성 스님은……?”
“입적하셨다.”
지난 해 왔을 때 몸이 불편하시다고 하더니 백용성 스님은 끝내 세상을 떠나신 것이다. 나는 백용성 스님의 영정 앞에 분향하고 참배했다.
백용성 스님은 1864년에 전북 남원군 죽림리에서 태어났으며 1940년 77세의 일기로 입적하셨다. 그가 살았던 조선 말기와 일제시대는 역사적으로도 혼돈과 암흑기였지만 불교도 대내외적으로 큰 시련을 받았던 시기라는 것을 주목해볼 필요가 있을 것이다.〈p.206〉
이조 5백 년의 억불정책이 풀리던 시기였지만 기독교나 동학 등이 민중 속으로 파고들어 그 세를 확장하는 것에 반해 오랜 은둔적 성향이 전통으로 화해버린 불교계로서는 이에 대처하기가 무력했고, 일제의 불교탄압 또한 심각한 양상으로 번지고 있어, 미래지향적인 방향 설정을 위한 불교유신과 정통성의 고수라는 양대 과제가 필연적으로 제기되던 때였다.
백용성 스님은 기미독립운동에 민족대표 33인으로 참여하셨고 이로 인해 1년 6개월의 체형을 받은 것으로도 유명하지만, 불교유신에 앞장섰던 점을 더 높이 사야 할 분인 것으로 나는 안다. 그는 전통적인 한국 선종(禪宗)의 특색을 다시 드러내어 불교 본연의 진면목을 제시하는 것을 불교유신의 목표로 삼았다. 불교의 근본적 의미를 새롭게 부각시키되 제도나 운영방법의 개선을 도모하는 유신을 꾀하려 했다.
그는 노래하였다.

五蘊山中尋牛客
獨坐虛堂一輪孤
方圓長短誰是道
一團火炎燒大千
오온산 속에서 소를 찾는 나그네
외로운 달 그림자 한줄기 비치는 텅 빈 집에 홀로 앉아 있네.
뉘라서 이 길고 짧고, 모나고 둥근 것을 구별하리오.
한 덩어리 불길이 삼천대천세계를 다 태우네.

그는 또한 다음과 같은 게(偈)를 송했다.〈p.207〉

金烏千秋月
洛東萬里波
漁舟何處法
依舊宿蘆花
금오산에는 변함없는 달이 뜨고
낙동강에는 끝없이 물결이 이는데
고기잡이 배는 어디로 갔는가.
전과 같이 갈대꽃 속에서 잠을 자네.

위 게송은 그가 대각교를 세울 때 종지천명의 어귀로 삼은 것이다. 백용성 스님은 도의 근원이 깨달음에서 나오는 것이라고 했다. 깨달음이란 무엇인가? 본각·시각·구경각이 원만하여 둘이 없음을 말하는 것이고, 지혜가 원만하고 밝아서 비추지 않는 바가 없음을 말하는 것이니, 도의 큰 근원은 깨달음에서 비롯되며, 이것은 우주의 궁극적 근원이 각성(覺性)이라는 것을 의미할 것이다.

평소 존경해 마지않던 백용성 스님의 입적 소식에 우울한 마음으로 잠자리에 들었다. 그러나 이튿날 와룡동으로 왔을 때는 다시 김천으로 갈 생각에 부풀어 있었다.〈p.208〉
三笑窟 日誌 ; 鏡峰大禪師 日記
경봉 스님 일지 속의 용성
『三笑窟 日誌 ; 鏡峰大禪師 日記』(1992, 극락선원), p.52, p.79, pp.154-156.
0001_0055_a_01L(1929년) 3월 9일 토요일
오전 10시에 白龍城 禪師를 방문하다. 자기의 사진에 影讚하기를
水水山山爾形
花花草草爾意
等閑來等閑去
明月照淸風拂
물과 산은 너의 모습이며
꽃과 풀은 너의 뜻이로다
한가로이 오고 가니
밝은 달 비치고 맑은 바람 불어 오네

(1930년) 7월 19일 토요일 맑음
서울 鳳益洞 表檜庵 崔尙宮 吳尙宮 등 3인이 來寺하여 7일간 이준공 전하를 위하여 내일 아침에 회향한다고 한다. 法師로 청하기에 오후 1시에 법상에 올라 설법하다.
(1940년) 4월 5일 금요일 흐림
어제 경성 백용성 스님 입적에 弔電을 보내다.

5월 5일 일요일 맑음
함양군 백전면 백운사 華果院에서 內院庵으로 서신이 왔다.
敬頌
僉尊 大法體候 淸淨萬福 就白 龍城大禪師 遷化邇來 一生需用底 魚笛一聲 寂然無聞 而今安在 伏望指示 庚辰三月 日


謹夏 時維春風浩浩 春鳥喃喃 而此遠慰僉尊 是外何喩 第控 今承貴翰 感荷沒量 然而有問無答不可故 如左謹答
若是弄潮問白鷗 咦 婆囉 婆囉
迫 貴書 龍城大禪師 遷化邇來 漁笛一聲 寂然無聞云云 遷化邇前 以何漁笛曲有聞耶 一爲且道焉
0001_0056_b_01L공경히 아룁니다.
대법체후 청정만복하신지요.
드릴 말씀은 용성 대선사께서 入寂하시니 한평생 수용하시던 것은 다만 고기잡이 배의 젓대 소리 한소리뿐이었는데 지금은 적막하여 들리지 않으니 지금 어디에 계시는지 바라옵건대 지시하여 주소서.
    경진년 3월 일


때는 봄바람이 훈훈히 불고 새떼들은 지저귀니 이것으로 여러 대중 스님네를 멀리서 위로합니다. 이 밖에 다시 무슨 말씀을 하겠습니까.
보내오신 서한을 받으니 感荷가 무량합니다. 그러나 물어오신데 대하여 답이 없을 수 없으므로 삼가 답을 합니다.
만약 조수를 희롱하는 사람이면 강호의 백구에게나 물어보십시오.
억! 파라 파라
迫 귀처의 서한 가운데 용성 대선사께서 천화하신 뒤 고기잡이배의 젓대 한소리가 적연하여 들리지 않는다고 하였는데 그러면 천화 이전엔 젓대소리를 들었을 테니 그 젓대소리가 어떠하던가 한번 일러보십시오.
나, 高銀
용성 제자, 박중봉
고은, 『나, 高銀』 2권(1993, 민음사), p.62, p.116.
0001_0057_b_01L마침 백용성(白龍城) 스님 문중인 박중봉 노장이 동국사에 왔다. 그의 강경 암자에도 전란으로 인해 산중 수좌들이 산중에서 내려오게 되어 그런 수좌들이 머무는 중이라 했다. 난세는 출가승에게도 난세였다. (중략)
우리가 탄 기차는 강경을 지나고 있었다.
아, 강경 정암사의 용성 스님 제자 중 하나인 중봉 노장 그리고 선방 수좌 스님들, 강경 읍내의 세 보살들. 그 아름다운 중년 여인들의 육감적인 매혹, 금강 개펄의 갈대밭에서 후닥닥 날아가는 포구로서의 장끼, 중세 근세 이래 언제나 세곡선이 금강 하류로 내려가는 포구로서의 강경의 옛자취로 남겨진 오래된 당산나무 몇 그루, 뜻밖의 범어(梵語) 전문가인 강경상업학교 교장의 그 거짓 없는 인상, 역전의 신금석, 피난민들이 펼치는 삶의 새로운 출발……
이런 강경을 지나가버렸다. 어느새 우리는 이리역에 당도했다.
용성 제자, 신소천
고은, 『나, 高銀』 2권(1993, 민음사), pp.296-297.
0001_0058_b_01L이 무렵 젊은이들의 불교는 불교의 각존(覺存)과 서구 실존주의의 실존(實存)의 어떤 상호 부합에 대한 지적 호기심이 강했고 이것을 대각회가 상당히 충족시켜 주었다. 대각회는 주로 종로 3가 봉익동의 대각사에서 집회를 계속했다.
거기에는 대각사 주지 신소천(申韶天) 스님의 호의가 작용했다. 소천 스님은 지난날 만주의 독립군으로 군관 양성소까지 졸업했는데 독립군 단체끼리 서로 적대시하는 사례에 충격을 받고 그곳을 떠나 국내의 산중을 떠돌면서 경전을 가까이 하다가 중이 된 50대의 승려지만 비구계, 보살계를 받지 않고 끝내 사미 10계만 받은 그대로 사미승으로만 일관했다.
그는 대각사 창건주인 백용성(白龍城) 스님 이래 그 문중에서 용성 스님의 많은 저술 활동의 일부를 이어받은 듯이 금강경과 반야심경, 승만경 등의 경전 해설을 많이 했다. 그는 나에게도 잡지에 발표할 기회를 만들어달라고 부탁했다. 몇 번인가를 그런 기회를 만들어주기도 했다.
용성 가풍
고은, 『나, 高銀』 3권(1993, 민음사), p.34.
이토록 어느 진리체계로 이루어진 집단 안에는 반드시 그 집단에 대한 불화를 일으키는 세력이 있는 것이다. 이런 사례는 가장 세련된 분위기의 선학원에도 어쩌다가 나타났다.
그것은 비구승단이 사판승(事判僧)인 대처승을 전국의 주요 사찰에서 내보내고 실권을 잡자 이번에는 비구승단 동료 자신들끼리 집안 다툼을 시작한 것이다. 만공 가풍과 용성 가풍의 갈등도 진작 이때부터 조금씩 생겨났다.
그래서 한때는 선학원과 대각사 사이의 거래가 끊어진 적도 있었던 것이다. 이런 때는 제자를 아주 적게 둔 집안이 훨씬 편안했다. 가령 효봉스님 제자들은 손가락으로 헤아릴 정도로 열 명 안팎이라 이런 문중은 서로 아끼고 서로 탁마하는 일에 게으르지 않다.
길림조선족
방천땅을 세 번 개척
『길림조선족』(1994, 연변인민출판사), pp.114-118.
0001_0060_a_01L방천 사람들은 근 90년간 대를 이어 개척한 방천땅을 잃고 일제놈들에게 쫓기워 정든 고향을 떠났지만 조상의 뼈가 묻히고 겨레의 얼이 슴배인 이 땅을 잊지 못하였다.
1945년 《8·15》광복의 서광을 맞자 방천 사람들은 다시 방천으로 되돌아가려 잡도리하였다. 훈춘현 인민정부에서는 그들의 요구를 비준하였다. 드디여 그들은 방천땅에 되돌아가서 두 번째로 방천땅을 개척하는 어려운 과업을 수행하게 되었다.
1947년 해토 무렵, 정든 고향에 다시 돌아온 사람들의 눈앞에 보이는 방천은 황량한 폐허였다. 벌써 8년간이나 무인지경으로 버려두었으니 모든 것을 새로 개척해야 했다. 그들은 림시농막을 지어놓고 버들뿌리를 뽑아내고 묵밭을 다시 일구었다. 그때는 연변땅에서 토지개혁이 《복사운동》 단계에 들어선 때라 《토지법대강》에 좇아 방천땅도 고루 분배하게 되었다. 땅을 일궈놓으면 땅의 주인으로 되니 사람들의 마음은 더없이 기뻤다. 첫해 농사가 풍작을 거둘 무렵에는 새집들도 아담하게 지어놓았다. 마을에는 학교도 새로 일떠서서 학생들의 랑랑한 글소리도 들을 수 있었다. 방천마을에는 생기가 넘쳤다. 행복한 살림이 꽃처럼 티여나고 방천 사람들의 얼굴엔 저마다 희색이 만면하였다.
그러나 방천 사람들이 이곳에서 더욱 아름다운 살림을 꽃피우려던 념원은 또 뜻하지 않던 좌절을 받게 되었다. 1950년 6월 25일에 폭발한 조선전쟁의 불길은 그해 늦가을 두만〈p.114〉강, 압록강변까지 뻗쳐왔다. 전쟁의 풍운은 물론 방천 사람들에게도 덮쳐왔다.
중국에서는 중국인민지원군을 조선에 파견하여 지원의 손길을 내밀었고 쏘련에서는 무기와 군사물자를 원조하였다. 그 수송선이 바로 방천땅 부근을 지나게 되었으니 말이다.
쏘련에서는 보드그르나야와 조선 두만강시 사이에 조쏘두만강대철교를 놓아 조선과 쏘련의 직통철도를 련결시켰다. 이 철도를 쏘련에서 시급히 부설하기 위하여 보드그르나야의 산언덕을 폭발시켜 평평하게 만들었다. 그리고 철도의 안전수송을 위하여 적들의 공중폭격을 방비할 대책을 대였다. 전쟁이 이 부근 방천 사람들의 생명재산의 안전을 엄중하게 위협하였다. 하여 방천 주민들은 전부 내지에로 이주시키지 않으면 안되였다. 당시 훈춘현 현장 서원흡은 이런 사정을 고려하여 몸소 방천촌에 내려가 백성들에게 선전, 설복 사업을 하여 마을사람들을 인차 이사하게 하였다. 방천 사람들은 고향을 떠나기 몹시 아쉬웠지만 이 정든 땅을 떠나지 않으면 안되였다.
1961년, 훈춘현 농업국과 경신인민공사에서는 방천에 목축장을 꾸렸다. 그즈음 방천 사람들은 다시 방천으로 되돌아가려 하였다. 주덕해주장이 몇번 방천으로 다니면서 백성들의 이 심정을 료해하고 보살펴주었다. 방천 사람들의 이 념원은 1965년에 드디여 현실로 되었다. 그해 28세대의 조선족 농민들이 방천으로 다시 이주하였다. 그들은 방천땅의 세 번째 개척자들이였다.
1965년 봄부터 28세대의 조선족 농민들은 당지부서기 강태원의 인솔하에 14년간 묵밭으로 되었던 거치른 땅을 다시〈p.115〉 개간하고 집을 짓고 새마을을 건설하기 시작하였다.
그해 8월이였다. 밤낮 사흘 동안 비가 억수로 퍼부었다. 방천벌은 바다처럼 되어 물에 잠겼고 새로 지은 집들도 무너졌다. 사람들은 물난리를 피하여 장고봉에 올랐다. 이사 초년에 설상가상으로 큰 수재를 입어 곤난이 더욱 막심하였다. 그러나 방천 사람들은 곤난 앞에 머리를 수그리지 않고 재해와 억세게 싸워 이겼다. 그들은 다시 28세대의 새집을 지어 그해 겨울을 따뜻이 지날 수 있게 되었다.
이듬해 방천 사람들은 방천호의 물을 끌어내여 15헥타르의 논을 풀었다. 그뿐만 아니라 국가의 지원을 받으며 2년간 악전고투하여 끝내 길이 1,000메터 되는 두만강 제방을 수축하였다. 이리하여 어지간한 홍수의 피해를 모면할 수 있게 되었다. 방천 사람들은 방천땅에 대한 애착심이 그처럼 깊었기에 새 생활을 창조하는 의력도 세인들이 경탄할 정도로 이악스럽고 완강했다.
박리근로인의 실정을 보더라도 그러하다. 개척 초기부터 방천땅에 삶의 뿌리를 깊이 내린 박리근로인은 장고봉사건 후와 조선전쟁 시기에 두 번이나 방천을 떠났다가 1947년과 1965년 선후 두 번 다시 방천에 되돌아갔고 로년에 아들을 따라 도문에 가서 한가하고 평안한 도시생활을 하게 되었다. 하지만 그는 그를 키워주었고 한평생 살아온 고향애토가 하냥 그리워 아들며느리의 재삼 권고도 마다하고 세 번째로 방천에 되돌아갔다. 살아서도 《방천 사람》이고 죽어서도 《방천 귀신》이 되련다는 신념을 천륜지락을 향수하는 것보다 더 귀중하게 여겼기 때문이였다. 이렇듯 방천땅을 열애하는 방천 사람들의 힘과 지혜로 하여 방천마을의 보다 아름다운 전경이 바야흐로 펼쳐지고 있다.〈p.116〉
80년대 초기만 해도 방천은 아직 외지 사람들이 제나름대로 다닐 수 없는 미개방지로서 이름없는 벽지였다. 하지만 90년대에 와서 날이 갈수록 방천의 지명도가 높아졌다. 특히 금년(1992년) 초에 국무원에서 훈춘을 국가급변강지구개방지로 비준하였고 3월 20일, 리붕 총리가 전국인민대표대회 제7기 5차전원회의에서의 《정부사업보고》에서 이를 다시 언급하면서 지금 이곳은 세인의 이목을 끄는 고장으로 되었다.
연변에 오는 사람들은 방천에 가서 관광하는 것을 큰 소원으로 삼고 있다. 기실 방천은 지리적 위치가 특수하여 볼 만도 하다. 방천의 《동방초소》에 올라서면 중국, 조선, 로씨야 세 나라의 산천경개가 한눈에 안겨운다. 중, 쏘 국경선 옆을 지나다니는 로씨야 변방군의 순라병이며 기적소리를 울리는 기차나 트럭을 지척에서 일별하는 것도 가관스업거니와 밭에서 일하는 살집좋은 로씨야 녀인들을 보는것도 퍽 흥미를 끌고 있다.
방천에서 일본해는 30리(15km)이다. 맑게 개인 날 망루에 올라서서 망원경으로 일본해를 바라보느라면 보얗게 물결치는 파도가 시야에 안겨온다. 실로 신기루를 보는 것 같은 미묘하고 야릇한 심정이다. 고요한 밤이면 세 나라 닭울음소리와 개짖는 소리를 들을 수 있는 것도 이 고장의 풍치이다. 그리고 똑딱선을 타고 두만강에서 쏜살같이 달릴 때의 기분 또한 더없이 상쾌하다. 이 모든 것은 방천의 매력으로 되어 유람객들을 끌고 있다.
그뿐만이 아니다. 방천은 중국에서 두만강을 거쳐 일본해로 나가는 《수상비단길》이기도 하였다. 이 고장은 바로 동북금삼각의 정점이다. 여기서부터 일본해로 나가면 해상으로 청도, 상해 등지에로 롱항할 수 있을 뿐만 아니라 조선의 웅기, 라진, 청진은 이웃이고 부산, 인천으로 다닐 수 있고 로〈p.117〉씨야의 뽀씨예트(40km), 해삼위(160km)이며 일본의 니이가다(新泻, 800km) 항구에도 직통하게 된다.
지금 전문가들은 방천에서 1편방키로메터의 구역을 떼내여 자유무역구를 만들 구상을 하고 있다. 불원한 장래 대외개방의 문이 활짝 열리는 날이면 방천은 북방의 심수로 될 것이며 동북금삼각우의 밝은 진주로 온누리에 찬란한 빛밭을 뿌릴 것이다.〈p.118〉
연변문사자료
남명철, 연변의 불교
『연변문사자료』 8집(1997, 연변인민출판사), pp.76-82.
0001_0062_b_01L불교는 연변땅에서 뿌리내린 력사가 가장 길고 그 사회적 영향 또한 가장 넓고 깊어 소홀시할 수 없는 종교이다. 해방 전 연변지구의 상당수 조선인, 한인들이 세세대대를 인습되여 내려온 종교였다는 상황에서도 이 점을 충분히 감안하게 된다.
불교의 교리에 따르면 인간은 본능적인 욕망을 갖고 있고 또 그 욕망의 만족을 끝없이 추구하기에 인생길에는 자고로부터 고달픔이 가득차 있다고 여긴다. 따라서 인간의 욕망은 한이 없기에 고달픔도 끝이 없는바 생명의 연장, 즉 이승에서 저승에로의 전환은 곧 고달픔의 계속이라고 간주한다. 고난에서 벗어나는 길은 오로지 도를 닦아 불교의 오묘한 리치를 깨닫는 《원각(园觉)》과 《원적(园寂)》1)의 길밖〈p.76〉에 없다고 력설한다. 인간이 《무욕무아(无欲无我)》의 경지에 이르러야 고난이 끝난다고 여긴다.
불교는 그 교의(教义)와 도를 닦는 방법이 다름에 따라 《대승(大乘)》불교와 《소승(小乘)》불교로 나뉜다. 동북지구에서 전해져 내려온 불교는 거의 다 《대승불교》이다. 동북지구에서 집거하고 있는 조선족도 력사적인 원인으로 《대승불교》를 믿는다. 연변땅에 불교가 전해진 로정을 살펴보면 두 갈래 길로 나눌 수 있다. 한 갈래는 중국 내지로부터 전파되였는데 신자는 물론 거의 전부가 한족들이다. 다른 한 갈래는 한반도로부터 전파되여 왔고 불자 역시 죄다 조선 이주민들이다.
문헌기재에 따르면 연변 경내에서 제일 먼저 세워진 사찰(寺刹)은 조동종(曹洞宗)파가 훈춘에 세운 령보사(灵宝寺)이다. 청나라 건륭(乾隆) 8년(1743년)에 지은 이 절간은 건축면적이 250방장(方丈)이고 불전(佛殿) 3간, 관성전(关圣殿) 3간, 종루 2개로 이루어졌는데 꽤나 장관스러웠고 승려 6명이 있었다.
그 후 불자들이 점차 많아지게 되어 한때 향화가 극성했는데 동치(同治)년간에는 훈춘현성의 절반을 넘는 인구가 불교를 믿었다고 한다. 광서(光绪) 초년(1875년), 불자가 대폭 늘어나는 실정에 적응하고저 조사묘(祖师庙)를 새로 지었는데 건축면적이 80방장에 달하여 태상신전(太上神殿) 3간, 산신전(山神殿) 3간, 동서 사랑채 5간으로 이루어졌고 승려 2명이 있었다.
그 후 봉건통치자들이 공맹지도(孔孟之道)를 숭상하고 유가(儒家)사상을 고취하였기에 불교가 천시를 받게 되면서〈p.77〉 절간의 향객도 점차 줄어들었다. 더우기 금세기에 접어들면서 천주교, 기독교가 전파됨에 따라 한족인들 가운데서 불자가 현저히 감소되는 추세를 과시했다.
중화민국이 창립되기 전후 시기에 이르러 한족인들이 동3성으로 이주하는 수자가 늘어났고 내지 각 사찰의 중들도 연변에 와서 활동을 활발히 전개하게 되면서 절간의 향객들도 다시 많아지기 시작했다. 그 무렵 연길현 동불사 등 여러 절간들이 륙속 지어졌고 한족인들 가운데서 불자가 부쩍 증가했다.
연변의 조선족 인민들 가운데서도 불교는 본래 유구한 력사를 갖고 있었다. 일찌기 조선의 리씨왕조 이전의 력사 시기부터 불교는 이미 배달민족 모두가 믿는 단일한 종교였다. 연변땅을 맨처음 개간한 조선인 개척자들 가운데는 불교도들이 적지 않았다. 금세기 초년후 연변땅에 발을 붙인 유지인사들 중에서 불교를 연구하는 학자들도 있었지만 승려는 없었고 절간도 없었다.
1911년 3월, 조선인 승려 김본연(金本然)이 룡정총에서 최기남(崔基南)의 협찬을 받아 운흥사(云兴寺) 건축공사를 시작했다. 향후 김본연 스님이 훈춘지방으로 옮겨가게 되어 최기남이 이 공사를 마무리짓고 불상 3존을 앉혔다. 절간에 향객이 흥성하던 때에는 불자가 200여 호에 달했다고 한다.
그러나 1910년대 후반기에 들어서면서 천주교, 기독교 등 서양 선교사들의 포교활동이 활발해지고 특히 조선민족 여타 전통 종교단체 지도자들이 애국지사들과 더불어 반일〈p.78〉계몽운동을 세차게 벌리면서 수많은 개척민2)들을 대폭 흡인한데서 불자들이 점차 적어지게 되었다.
한편 경제상의 원인도 없지 않았다. 그 시절 개척민들의 살림형편이 저마다 극히 어려웠으므로 사찰에 주지(主持) 스님을 모시지 못하는 실정이기도 했다.
1915년 조선 경상남도 동래군(东莱郡) 반어사(梵鱼寺)의 고승(高僧) 김구산(金龟山)이 연변에 와서 참법(忏法)활동을 하게 되면서 그를 주지승(主持僧)으로 모셔들였으나 절은 그냥 흥성하지 못했다. 개척민들이 많이 모여사는 동량상리사(东良上里社)에도 불자는 열두 호밖에 되지 않았다.
1920년 10월, 일제가 연변땅에서 공공연히 발광적으로 감행한 이른바 《경신년토벌》 때 반일의 기발을 들고 민족해방투쟁에 떨쳐나서 싸우던 수많은 인인지사들이 살해되자 불교를 망라한 적지 않은 종교단체 책임자들은 부득불 《순종교》 활동에로 넘어갔다. 따라서 한반도로부터 살길을 찾아온 이주민도 늘어나고 성시와 산간마을을 떠돌아다니면서 로상탁발(路上托钵)하는 조선인 승려들도 많아지면서 한때 연변 각지에 절간들이 륙속 나타났다.
1920년 7월, 화룡현 월청(지금의 도문시 월청향) 룡암동(龙岩洞)에서 조선인 승려 최승한(崔承韩)이 구리불상 하나를 발견하고 절간을 지은 뒤 신흥사(新兴寺)라고 이름지었다. 1925년 4월 근처에 다시 별원(別院)을 증축했고〈p.79〉 1928년에는 인수사(仁寿寺)로 개명했다. 그해 8월에 절이 큰물에 떠밀려가자 마을사람들이 솔선 기부금을 낸 보람으로 1931년에 새롭게 건축했다.
1923년에 연길현 부암촌(富岩村, 지금의 룡정시 팔도향 경내)에 룡주사(龙珠寺)를 세웠다. 1920년부터 1923년에 이르는 3년간에는 일본불교계의 정토종(净土宗), 선종(禅宗)파의 조선인 승려들도 룡정 등지에서 본원사(本愿寺), 보조사(普照寺), 조동종별원(曹洞宗別院) 등 절간을 잇달아 세웠다. 1927년 조선불교계의 대각사(大觉寺)파 역시 룡정에서 절간을 세웠다. 1929년, 1930년간에는 귀주사(归珠寺)파도 룡정에서 보흥사(普兴寺)를 짓고 연길에서 연명사(延明寺)를 새로 지었다.
금세기 20년대 후 연변의 불교계는 수화상극의 두 파로 갈라졌다. 즉 조선불교계의 귀주사, 대각사파가 그 한 파라면 일본불교계의 정토종, 선종파를 다른 한 파로 하여 서로 엇서서 《자선사업》으로 불자들을 쟁탈했다.
1934년에 이르러 안도현을 망라한 연변 5개 현의 절간은 도합 14개소였고 불교도는 2,400여 명에 달했다. 일찌기 금세기 20년대 초부터 일본제국주의자들은 연변땅에서 저들의 불교사찰을 애써 운영하며 조선인 불교도들을 《무마하는 정책》으로써 조선인들의 반일투지를 마비시키고저 시도하였지만 그 음험한 목적을 시종 달성할 수 없었다. 그것은 룡정, 도문, 팔도구 등지의 조선불교계인 귀주사(归珠寺)파가 광범위한 조선인 민중들의 지지를 얻었고 연변불교계서 언제나 우세를 점하고 있었기 때문이였다.
1931년 《9·18》사변 후 일본제국주의자들과 위만주국정〈p.80〉부는 불교를 한낱 도구로 삼아 인민대중의 반일정서를 마비시키고저 잔꾀를 썼다. 룡정, 도문 등지에서 무슨 《불교도 부녀회》따위 사회단체를 꾸며내여 《금연운동》, 《금주운동》을 그럴사하게 벌리면서 사회영향을 확대하고 교세를 발전시킨 것을 그 실례로 들 수 있다. 위만정부의 부추기는 정책, 그리고 조선인 불교단체의 첩첩한 자금난, 신자들의 막심한 생활난 등 여러가지 원인으로 하여 연변에서 일본인들이 《뒤심》이 된 불교는 상당 정도 거족적인 발전을 가져왔다.
1944년 10월에 이르러 돈화를 제외한 연변 5개현 경내에는 절간 37개소에 불교도 11,796명이나 되었다. 그중 한족인들 절간이 17개소에 불교도 7,218명, 조선인들 절간이 20개소에 불교도 4,578명이였다. 1946년 3월, 연길시의 조선인 승려 김천해(金千海)는 31개소의 조선인들 절간을 대표하여 《동북연변대한불교협회(东北延辺大韩佛敎协会)》의 성립을 정부에 신청하고 교세를 발전시키기 위하여 노력을 기울였다. 당시 연변지구 31개소의 조선인 절간에 불자가 968명이 있었다.
미구하여 연변지구에서 토지개혁운동이 전격 시작되자 불교사찰에서는 종교방식으로 봉건착취를 진행하였기에 농촌의 빈고농과 성시빈민들이 분연히 일떠나 적지 않은 절간을 충격하였고 죄악이 큰 승려들은 청산투쟁을 받았다. 대다수 승려들은 고향으로 돌아간 뒤 생산로동에 참가했다. 로동능력을 상실했거나 의지가지가 없는 승려들만 계속 절에 남아 여생을 보냈다.
1954년 이후에도 훈춘현의 정수암(静水庵), 안도현의 태안사(泰安寺), 돈화현의 정각사(正觉寺), 화룡현 두도구〈p.81〉 등 일부 절간과 암자들에서 독경(读经)행사가 있었다. 안도현의 태안사에서는 불교행사기회를 빌어 미신활동을 하고 불자들을 속이는 착취행위가 있었기에 당지 인민정부에 의해 제지당했다. 향후, 《문화대혁명》의 충격을 받은 뒤 연변 지구에서의 불교활동은 줄곧 침체상태에 처해 있었다.
당의 11기3중전회후, 주인민정부에서는 종교신앙 자유의 정책을 다시 락착시켰다. 1985년에는 훈춘현의 정수암(静水庵)을 회복하였는데 녀승 한 명이 있었을 뿐이였다.
그나마 녀승이 타계한 뒤 계승자가 없어 정수암마저 드디여 소실되고 말았다.
지금에 와서 불교는 후세인들, 특히 나젊은 새일대들의 노리에는 기나긴 겨울밤의 옛이야기에 지나지 않지만 고령에 있는 수많은 로인들 가운데서 불교는 아직도 지워버릴 수 없는 추억으로 남아 있다. 그뿐만 아니라 21세기를 내다보는 지금도 적지 않은 불교도들이 살아있고 경건하고 열성적인 새 불자가 비일비재로 늘어나고 있는 추세를 보여주는 것이 사회 실정이다.〈p.82〉
청담대종사전서
자화상
『청담대종사전서』 1권(1999), 청담문도회, pp.58-62.
나의 유신론(唯信論)
0001_0066_a_01L내가 내세운 세 가지 큰 항목 가운데 하나인 불경의 한글 번역은 나의 주장이라기보다는 차라리 용성 대사(龍城大師)의 큰 뜻이었다고 해야 할 것이다. 불경 번역사업은 일찍이 대사로부터 시작되었기 때문이다.
불경은 승려들의 독점물이 아니다. 차라리 더 많은 대중들의 것이어야 한다. 그리고 오늘은 한문을 해독하지 못하는 한글 세대들이 계속 자라나고 있기 때문에 불경 번역은 한국 불교의 가장 시급한 최대 사업이라고 해도 과언이 아니다.
불경 번역사업과 더불어 또다시 해내지 않으면 안되는 일은 불교의 대중화 내지 불교의 현실화운동이다. 사람들이 한가로운 때, 신심이 두터운 때에는 사찰이 산간에 있어도 될 것이다. 그러나 오늘날과 같이 사람들이 분주하고 어떠한 방법으로도 믿음이라는 것을 가지기에 어려운 시대에서는 신자와 승려들의 대화와 이해소통으로 그 갭을 메꾸어야 한다.〈p.58〉
사람들은 시달리고 있다. 아침 일찍 일어나 밥 먹고 출근하고, 많은 일과 사교에 시달리고, 그리고 저녁이면 솜같이 지쳐서 집으로 돌아간다. 밥을 먹고 잠에 떨어진다. 다음날도 같은 일이 되풀이된다. 그들에게 사찰을 찾을 만한 시간이 없는 것이다. 불교가 그들을 찾을 수밖에 없다. 여기서 그러면 한국 불교는 어떻게 대중들을 찾아가야 한단 말인가 하는 다음 문제가 따라온다.
‘어떻게 대중들을 찾아가야 하는가’ 하는 문제는 승려들의 교육문제와 연관된다. 이제는 극락이라든가 기이한 선문답으로 대중들을 거느릴 수 없다. 그러기에 오늘날의 사람들은 너무나 영악하다. 그들은 환상이라든가 가상적 세계의 약속을 뿌리칠 수 있도록 충분히 영리하다. 그렇기 때문에 승려들은 그들과 정식으로 만나는 수밖에 없다. 정연한 논리로서 보리(菩提)의 참모습을 보여줘야 한다.
나에게 이 세 가지 문제는 파벌이라든가 이해타산을 넘어서서 공감할 수 있고, 공감으로써 실현시킬 수 있는 일이라고 생각되었다. 그랬는데 어떻게 그런 결과가 빚어질 수 있었단 말인가. 내가 제의한 모든 안건은 깡그리 부결되고 말았고, 그리하여 나는 며칠을 번민한 끝에 탈퇴 성명을 내지 않으면 안되었다. 각계의 지인들은 거기서 나의 경솔성을 지적하고 돌이켜 생각하라고 권유했었지만, 내 생각으로는 그런 식으로 한국 불교의 내일을 바랄 수 없었던 것이다.
이제 와서 이 글을 쓰는 지금은 그 탈퇴가 오히려 한국 불교를 제자리로 옮겨 놓은 첩경이 되고 말았지만, 탈퇴라는 너무도 소란스러운 사건으로까지 치달리지 않으면 안되었던 그때의 나의 심경에 많은 앙금을 남기고 말았다. 그 앙금은 지금도 조용한 시간이면 나를 찾아온다. 그리하여 나는 이렇게 고즈넉한 밤에 문을 열고 나가 나무숲 사이로, 냇물가로 거니는 것이리라.〈p.59〉
도선사의 마지막 층계를 밟고 내려가면 밤나무 숲에서는 물큰한 진액 냄새가 코끝을 스친다. 그리고 10월의 독특한 산 냉기가 좋다. 그리고 달빛이 좋다. 때때로 나는 밤숲을 거닐면서 “좋다, 좋다”라는 말을 무심하게 입 밖으로 흘려낼 때가 있다. 냇물을 따라 흘러 내려가고 있는 단풍잎을 주워 들고 그 앙상히 드러난 엽맥을 보고 있을 때, 이슬 내린 바위에 앉아 잠들어 조용해진 시내로 뻗어내린 신작로를 보고 있을 때, 그 말은 너무나도 당연하게 소리내지 않으면 안되는 성질의 것처럼 보인다.
나는 밤의 산길을 좋아한다. 길들은 끝이 없이 흘러간다. 왜 흘러가는 것일까. 냇물은 지면이 낮기 때문에 흘러내리고, 길들은 사람의 발자국의 때가 묻어서 흘러내릴 것이다. 그 자체의 의지로써 된 것이 아닐 것이다. 그런데도 달빛 아래 보고 있으면 그것은 한 의지처럼 보인다. 마치 도(道)라든가 보리(菩提)라는 말이 그 자체로서도 품격을 지니고 있는 듯이 생각키우기에… 달빛 속에는 사해대중의 아픔이 보이지 않는 밀도(道)로 들어차 있다. 그래서 대승들은 그 달빛 속으로 나아가 정진하는 것이리라.
중 일연의 기록에도 광덕은 밤마다 달빛 위에 떠올라 정진하였고, 현수도 달빛 속에서 그의 선을 맞아들였다. 기록만이 아니다. 사실에 있어서도 달빛은 승려들의 정진과 깊은 연관관계를 맺고 있다. 대승들의 모든 게송 속에는 한두마디 달빛의 이야기가 들어가 있다. 아니 달빛만이 아니다. 저녁 노을이라든가 새벽의 써득써득한 빛깔은 승려들이 너무도 사랑하는 색채이다.
아침 다섯 시가 되면 승려들은 눈을 뜨고 일어나 대빗자루를 들고 절 뜰을 한 바퀴 쓸고, 구석구석에서 진회색의 냄새가 풍기는〈p.60〉 법당의 문을 밀고 들어간다. 아침 염불을 왼다. 법당 문을 열고 나올 때는 벌써 건너 산 위로 붉고 미숙한 햇빛이 트고, 나오던 승려들의 손은 합장하여지고 허리는 겸손하게 구부러진다. 절간을 둘러싼 대숲에서 바람에 이파리가 흔들리는 소리, 풍경이 흔들리는 소리, 이 아침의 소리들은 너무나도 미세하고 신경질적이다. 마치 신라인들의 귀금속품과 같다.
그렇게 긴 아침이 서서히 사라지고 난 뒤, 산으로 빽빽이 둘러싸인 산간에는 저녁이 줄달음질치듯이 뒤따라온다. 더욱이 가을과 겨울에는 아침과 저녁이 거의 일직선으로 이어지고 있는 것 같다. 만산은 종일 붉은 노을에 잠겨 있는 듯하다.
아아, 승려들은 그 시간을 사랑한다. 더욱이 그런 시간 벼랑에서, 또는 토굴에서 정진하고 있는 사람들은 그 노을을 온 몸으로 받아들이고 온 몸으로 토해낸다. 그리하여 그들은 이윽고 그 달빛과 노을과 일출 위로 떠올라온다. 그런 다음 그들의 허적허적한 발길은 토굴을 빠져나와 세상으로 향하여진다. 법설(法說)이 시작되는 것이다.
이제 나의 이야기를 시작해야겠다.
길을 보고 있을 때 사람들은 걸어왔다는 사실과 그리고 걸어가야 한다는 사실을 동시에 생각하게 된다. 오늘밤 나에게도 그러한 사람들의 상습적인 사고가 되풀이 일고 있다.
나의 반생은 어떤 일을 하면서 걸어왔던가. 그리고 어떻게 앞으로 걸어가야 할 것인가.
서구의 어느 시인은 “모든 연대기적인 사건이란 아무런 의미도 없다. 그것이 어떻게 그의 정신의 성장과 관계를 맺고 있는가라는 사실만이 중요하다.”라고 말한 적이 있는데, 이 말은 불교적인 어투로 번역하자면 ‘그의 본성을 어떻게 찾아가고 있었던가’라는 것이〈p.61〉 될 것이다. 즉 수도기(修道記)가 될 것이다.
나는 다음 글이 수도기이기를 바라지 않는다. 그것을 바라기에는 한 사람의 삶 속에는 너무나 너저분한 사건들이 가득 차 있고 우연이 널려 있다. 그럼에도 불구하고 그러한 사건들 속에서 내가 염원한 나의 ‘유신재건’이라는 커다란 명제를 볼 수 있다면 다행이겠다. 그것이 어떻게 싹트고 어떻게 커 나왔던가를…. 그럴 수만 있다면 그것은 써걱써걱한 관념이 아니고 싱싱한 삶이며, 웅변이 아니고 사실이며, 허위가 아니고 실체일 것이다. 그러기만 한다면 그것은 진짜일 것이다.〈p.62〉
慈雲大律師, 律風振作事業 1次報告書
자운율사 비문
자운문도회, 『慈雲大律師, 律風振作事業 1次報告書』(2000, 자운문도회), pp.87-95.
傳佛心燈弘闡戒律慈雲大律師圓明塔碑銘
0001_0068_b_01L佛敎의 敎理로 戒定慧 三學은 禪의 根本이고 經律論 三藏은 敎의 本源이다. 그러므로 戒를 지키지 않으면 禪定이 생길 수 없고 선정을 닦지 않고는 智慧가 發現될 수 없다. 比丘戒本序文에 내 이제 毗尼法을 演說함은 正法을 오래도록 維持하게 함이다. 毗尼란 佛法의 壽命이니 禪是佛心이요 校是佛語이며 律是佛行이라 하였으니 心語行이 分離될 수 없다. 禪과 敎만 있고 戒律이 없다면 僧伽의 分限이 어찌 存在할 수 있겠는가. 그러므로 僧重則法重하고 僧輕則法輕하며 法輕則佛亦輕이라 하였다. 世尊께서 涅槃에 즈음하여 遺敎하시기를 내가 涅槃한 후에는 戒律을 스승삼아 修行하라고 當付하셨다. 佛敎가 우리나라에 傳來된지 於焉 千六百三十年에 이르는 동안 戒律을 專攻한 스님은 新羅時代에는 慈藏과 眞表 兩大律師이며 百濟에는 謙益律師이고 高麗朝에는 뚜렷이 찾아볼 수 없으며 朝鮮時代에는 排佛政策으로 佛敎가 萎縮된 狀況이었지만 多幸히도 仁純兩朝를 前後하여 金潭과 大隱 兩大律師가 배출되었다. 日帝强占期는 韓國의 傳統佛敎를 抹殺하려는 凶策으로 계율을 무시하고 帶妻食肉토록까지 하여 淸淨僧團의 傳統持戒精神마저 흐리게 하였다. 그러나 이러한 時期에도 불구하고 韓國佛敎의 悠遠한 長程을 開示하여 以戒爲師의 부처님 遺訓을 받들어 근본적인 불교중흥을 몸소 실천하신 한국불교의 卓越한 精神的支柱인 大律師가 계셨으니 慈雲律師가 바로 그분이시다. 그는 曹溪嫡傳이요 喚醒後孫인 龍城堂震鍾大宗師의 受法弟子로서 俗姓은 金氏요 本貫은 慶州이며 法名은 盛祐이고 號는 慈雲이요 自號는 淸凉沙門이며 塔號는 圓明이시다. 律師께서는 一九一一年 陰 三月 三日 酉時 江原道 平昌郡 珍富面 路東理 四一蕃地에서 父親 金慈玉公과 母親 仁同張氏의 五男으로 誕生하셨다. 父親은 關東의 班族으로 漢學에 造詣가 깊었고 특히 老莊에 精通하여 琴詩를 좋아하셨다. 母親 仁同張氏夫人은 法服을 입은 거룩한 스님이 오른손에 六環杖을 짚고 왼손에는 五色이 玲瓏한 二個의 구슬이 담긴 琉璃항아리를 주면서 이것은 文殊菩薩님께서 주시는 것이니 所重히 잘 간직하라는 어느 날 밤의 胎夢이 있은 후부터 腥肉과 葷菜 등은 一切 먹지 아니하며 心身을 청정히 하고 佛前에 祈禱하였으며 많은 佛事에 同參하여 功德을 닦았다. 律師께서는 태어나면서부터 聖姿를 지녔으니 얼굴은 마치 滿月과 같고 입술은 紅蓮色이며 齒牙는 白蓮色 眼精은 太陽빛에도 眩亂하지 아니 하였으며 靜坐하신 자태는 마치 大蓮이 滿開한 것 같았다. 아직 언어를 제대로 驅使하지 못하는 三歲 때 어느 날 어머니의 손을 잡아당기면서 빨리 집 밖으로 나가자고 보채기에 마지못한 어머니가 아이를 업고 빨리 집 밖으로 나오자마자 火災가 發生하여 家屋을 全燒하였으니 모두가 영명한 예견에 경탄하였었다. 어려서부터 老成한 모습을 보였으니 사람을 만나면 合掌하고 앉을 때에는 跏趺坐를 하며 흙으로 佛壇을 만들고 돌로 像塔을 쌓아 풀잎을 태워 香煙을 삼고 花果를 따서 獻供하였으며 메마른 못에 물을 供給하여 죽어가는 魚族을 救濟하였는가 하면 父親이 낚시 하는 것에 따라가면 산 고기는 모두 물에 놓아주어 酷責을 당한 적이 한두 번이 아니었다 하니 참으로 救蟻沙彌의 再現이라 하겠다 한다. 母親張氏夫人은 良妻로서 鴻妻와 같고 賢婦로서 菜婦와 같았으며 誓願은 光目女人과 같고 妹容은 妙德과 다름이 없었다. 집안이 貧困하여 戴髮로써 母情에 傳誠하였고 斷機로써 아들의 學業을 策勵하였다. 이러한 賢母의 밑에서 庭訓을 받은 律師께서는 七歲부터 出生地인 診富書堂에서 童蒙先習을 비롯하여 四書三經 등 儒書를 修學하였다. 어느날 五臺山에서 托鉢나온 梁慧雲스님을 보고 無限한 歡喜心을 일으켜 恭遜히 절을 하였다. 이때 스님은 大抵 사람이란 端正한 몸과 마음이 成聖의 바탕이 되나니 너는 將來가 囑望되는 善童이므로 부처님을 依支하여 바르게 살아 饒益衆生의 大人이 되라면서 八正道의 法門을 일러주었다. 十五歲에 祈禱次 어머니를 따라 五臺山 上院寺에 가서 慧雲堂 敬允스님을 다시 만나 百年 三萬六千日이 不及僧家半日閒이라는 順治皇帝의 出家詩를 들었다. 이때부터 점점 世緣이 싫어졌고 人間生活의 範疇만을 설명한 儒敎에 대하여 懷疑를 느끼기 始作하였다. 그리하여 다음해인 一九二七年 一月 十八日 다시 上院寺로 慧雲스님을 찾아가니 스님은 陜川海印寺로 떠나고 없었다. 律師께서는 그길로 父母의 許諾도 없이 海印寺로 달려가 出家할 것을 決心하고 八萬大藏經에서 一萬拜를 올리었으니 마침내 慧雲스님을 恩師로 南泉堂光彦和尙을 戒師로 하여 二月 八日 大寂光殿에서 沙彌戒를 받았다. 그로부터 恩師스님을 侍奉하면서 三藏硏究에 沒頭하여 一九三二年 梵魚寺 講院에서 大敎科를 卒業 一九三四年 梵魚寺 金剛戒壇에서 權一鳳律師로부터 菩薩戒와 比丘戒를 受持 同年 十五日 海印寺 禪院에서 首先安居를 成就한 後 一九三五年부터 蔚珍佛影寺에서 長坐不臥로 六年結社를 圓滿히 回向하였다 一九三八年 道峰山 望月寺로 龍城大宗師를 찾아 뵙고 西來宗旨를 擧揚한 다음 靑山堂運步하고 白雲氷不動이로다 人踏水底過한데 水不着衣裳이라는 悟道頌을 읊었다. 龍城宗師는 이를 듣고 그 境地를 認證하여 곧 入室建幢을 許諾하고 庭前栢樹子가 儼然冠山林이로다 身帶紺靑色하고 葉覆須彌山이라는 傳法揭와 衣鉢을 傳해주었다. 律師께서는 當時 日帝의 植民收奪로부터 祖國解放과 民族精氣를 되살리고 佛敎의 빛나는 傳統을 中興시키려는 大願을 세우고 一九三八年 四月 一五日부터五臺山 臺隊 寂滅寶宮에서 一日 二0時間式 百日 文殊祈禱를 奉行하던 중 九九日만에 文殊菩薩이 靑獅子를 타고 앞에 나타나 善才라 盛祐여 마땅히 이 나라 佛敎의 僧綱을 回復토록 精進하라 하시고 戒尺을 傳해 주시면서 堅持禁戒하면 佛法再興하리라는 感應을 받았다. 律師께서는 그로부터 서울시 鐘路區 鳳翼洞 大覺寺에 住錫하면서 當時 稀貴한 律藏을 구할 수 없어 二年餘에 걸쳐 三伏炎天에도 두터운 長衫을 입고 날마다 國立中央圖書館에서 卍續藏經에 실려 있는 五部律藏과 그 註疏를 모두 筆寫하여 律藏을 蒐集하고 이를 깊이 硏究하여 마침내 방대한 律藏에 精通하였다. 一九四八年 聞慶 鳳岩寺에서 처음으로 菩薩戒 授戒法會를 가졌으며 그로부터 千華律院 甘露戒壇을 設立하고 律文을 講義하는 한편 漢文本 沙彌律儀 沙彌尼律儀 梵網經 比丘戒本 比丘尼戒本 等 二萬五千卷과 한글 번역본 사미율의 사미니율의 범망경 비구계본 비구니계본 등을 三回에 걸쳐 四萬八千卷을 刊行流布시켰다. 鳳岩寺를 비롯하여 全國 單一戒壇에서 一九九一年까지 傳戒한 優婆塞 優婆夷 沙彌 沙彌尼 式叉摩那 菩薩 比丘 比丘尼 등 授戒弟子가 무려 十萬餘名에 이른다. 뿐만 아니라 末年에는 念佛往生을 發願하고 無量壽經 淨土三部經 十六觀經 阿彌陀經 勸發菩提心文 淨土法要 三時繫念佛事 圓悟禪師法語 등을 耘虛스님 번역으로 刊行流布한 것도 十萬部에 달한다. 一九四六年 宗師法階를 稟受, 一九五五年 佛敎敎團淨化後 初代 海印寺住持, 一九五六年 財團法人 海印學園 理事長, 同年 海印寺 金剛戒壇傳戒大和尙, 一九五七年 大韓佛敎曹溪宗 慶南宗務院長, 一九五八年 曹溪宗 中央監察院長, 一九五九年 密陽 表忠寺住持, 一九六0年 海印寺 住持 在任, 同年 五月 八日 스리랑카에서 開催한 世界佛敎僧伽聯合創立大會에 韓國代表로 參席, 一九六七年 東來 梵魚寺 住持 一九七0年 海印寺 住持 三任, 一九七四年 印度에서 開催한 世界平和促進會에 韓國代表로 參席, 一九七五年 曹溪宗 糾正院長, 一九七六年 大韓佛敎曹溪宗 總務院長, 同年 八月 曹溪宗 元老에 推戴, 一九七七年 財團法人 대각會理事長, 一九七八年 大宗師法階를 稟受, 一九七九年부터 入寂하실 때까지 東國譯經院長에 在任하였다. 律師께서는 性品이 廉直하여 先他後己의 精神으로 一切 私私로움은 容納하지 아니하였다. 春秋 五0이 되신 以後부터는 매일 阿彌陀佛十萬念 阿彌陀經四八遍 彌陀禮敬一千八0拜 文殊禮懺百八拜 그리고 저녁마다 蒙山施食 每月 十五日에는 放生 등을 入寂하실 때까지 始終一貫하였다. 衣服은 戒律에 依據하여 갈아입을 옷 以外의 것은 한 벌도 두지 아니하였고, 睡眠 每日 四時間 以上 取하지 않았으며 臨終하실 때까지 非時食戒를 지켜 午後不食하였다. 律師께서는 一九七一年 三月 三日 華甲日을 맞아 새로운 韓國佛敎 中興의 誓願을 세우려고 五0年 道伴인 映岩大宗師와 上佐인 智冠에게 三0日間의 斷食으로 今生을 回向하시겠다는 굳은 決意를 조용히 알려오자 映岩大宗師와 智冠이 極口挽留하여 겨우 翻意토록 한 事實은 날이 갈수록 더욱 새롭게 깨우쳐주는 바가 크다. 機會가 있을 때마다 門徒들에게 말씀하시기를 眷屬들이 護法아닌 利權으로 派閥을 짓는 일에는 絶對로 關與하지 말고 修行과 布敎에 專念하라고 當付하였다. 律師께서는 門徒 等 側近에 대하여는 지나칠 程度로 嚴格하였으나 側近이 아닌 다른 사람들에게는 溫和함이 마치 봄바람과 같아서 사람들은 異口同聲으로 近嚴遠慈 하신 분이라고 評하였다. 律師께서는 總務院을 비롯하여 海印寺 等 宗務에 있어 크고 작은 宗團事 등의 難題들을 私心없이 解決하여 宗團和合에 寄與한 바가 적지 않았다. 律師께서는 海印寺가 法寶宗刹로서 世界唯一의 八萬大藏經板을 奉安하고 있으나 부처님의 眞身舍利가 없음을 哀惜하게 생각하던중 一九六0年 五月 八日 스리랑카에서 開催한 世界佛敎僧伽聯合 創立大會에 韓國代表로 參席하였다가 眞身舍利 二顆를 奉安하고 歸國하였다. 이 舍利는 印度佛跡開發保存 委員長이었던 스리랑카의 達磨波羅大師가 佛陀伽倻成道大塔을 復元하고 竣工法會 때 開設한 比丘戒檀의 羯磨阿闍梨였던 瑟利拘那悉理스님이 塔中舍利 二顆를 얻어 奉安하고 있다가 그의 弟子인 사타티사스님에게 傳授하였던 것이다. 律師께서 傳해받은 이 舍利二顆를 大藏經閣에서 三七日祈禱中 文殊菩薩의 指示를 받아 伽倻山中 落花潭西便 千佛洞 吉祥峰 중턱 天然岩石을 깊이 파고 奉安하여 伽倻聖地를 더욱 빛나게 하였다. 海印寺住持 在任中 過去 海印大學 設立 當時 無償 讓渡하였던 海印寺 所有 林野와 土地를 모두 還收移轉하여 海印叢林의 基盤을 튼튼히 하였으며 一九六0年 海印寺住持에 再任하여 總務 暎岩스님과 함께 前任住持 때 寺刹農地 耕作人들이 提訴하여 初審에서 敗訴한 寺刹農地訴訟을 인계받아 三年 만에 大法院으로부터 最終勝訴判決을 받아 海印寺 所有土地뿐만 아니라 全國 寺刹土地도 모두 完全히 維持되게 하였다. 律師께서는 門徒 또는 뜻있는 젊은 後學들에게 修行과 함께 悲田에 속하는 社會福祉에도 全力하라고 當付하였다. 機會가 있을 때마다 當身 自身의 問題에 대하여 言及하되 내가 참된 律師라면 一生 山門 밖을 나가지 않았어야 할 것이나 그렇지 못하였으니 律師라는 號稱을 받기에 부끄럽다라고 하였다. 律師께서는 海外佛敎의 長點을 導入하여 韓國佛敎의 새로운 僧風을 振作시키고자 東南亞를 비롯하여 南北方의 各國 佛敎 狀況을 數次에 걸쳐 視察하고 얻은 結論은 韓國佛敎가 가장 純粹하여 자랑스러우니 젊은 後學들은 自負心을 가지고 戒律情神을 바탕으로 부지런히 修行하라고 激勵하였다. 一九九一年 三月三日 上佐인 智冠에게 諸行無常 萬法皆空 來者必去 吾將去矣 이젠 떠날 날이 얼마남지 않았으니 宗團의 單一戒壇傳戒師를 그만 두어야겠다 하시고 辭退書를 주시면서 總務院에 提出하라 하시고 辭世頌曰 吾年八十一 還鄕時到來 性宅周法界 何有往來跡이리요 하시다. 一九九二年 陰一二月 二四日 門徒들을 海印寺 弘濟庵에 모아놓고 나는 이제 餘生이 桑楡에 臨迫하고 四大色身은 마치 蒲柳와 같이 衰殘하였으니 日落西山의 時期가 얼마 남지 않았다. 靑柹도 오히려 紅柹보다 먼저 떨어지는 境遇가 적지 않으며 春霜이 아름다운 春花를 肅殺하는 수도 있거늘 어찌 秋葉이 淸溪에 떨어지는 것을 哀惜하다 하겠는가 上者는 父母와 같이 여기고 下者는 赤子처럼 사랑하여 上下가 六和情神으로 和合하고 無禮한 行動이 없도록 하며 破衲과 綴鉢로 恒常四依精神을 잊지 말라고 하였다. 마치 머리에 붙은 불을 끄듯 부지런히 精進하고 放逸하지 말며 옳지 않은 일은 火炕처럼 避하라 이젠 今生의 報緣이 다하였으니 來來世世에 부처님 會上에서 함께 만나기를 바란다고 하셨다. 다음날인 二五日 上佐 智冠과 孫上佐 世敏 慧聰 등을 불러 앉히고 이달 그믐날에 世上을 떠나려 한다고 豫告하시었다. 弟子들이 울면서 翻意를 간청하였으나 받아들이지 않으시고 本來는 臘月三0日로 定하였으나 癸酉年 설날과 陰曆初三日正初祈禱入齋 등을 避하여 初四日에 떠날 것이라고 하셨다. 마침내 四日(一九九二年 陽二月七日) 밤 一0時에 門徒들이 지켜보는 가운데 眞性圓明本自空 光照十方極淸淨 來興淸風逍遙來 去隨明月自在去란 臨終偈를 쓰신 다음 合掌하고 端正히 앉아 阿彌陀佛의 名號를 稱名하면서 조용히 入寂하시니 香氣가 振動하고 妙音이 淸雅하였으며 念佛소리와 함께 입으로부터 나온 五色光明이 西쪽 하늘을 가득 메웠다. 世壽는 八二歲요 法臘은 六六夏이다. 明月과 함께 큰빛을 남기고 가셨으며 淸風과 같이 오심은 衆生濟度를 爲한 願力受生임을 보여주신 것이니 淸風明月이 있는 한 스님의 去來 또한 중생계에서 영원히 自在하시리라. 七日째인 二月一三日 大韓佛敎曹溪宗元老葬으로 海印寺飛鳳嶝西便 蓮華臺에서 茶毘를 하니 四部大衆이 山谷을 가득 덮었다. 이틀 후 拾骨하니 五色이 玲瓏한 舍利가 銀杏만한 것이 一九顆이고 綠豆만한 것은 千餘顆이었지만 舍利를 찾으려하지 말라는 律師스님의 生前遺訓에 따라 작은 것은 모두 거두지 아니하고 큰 것 一九顆만 收拾하였다. 門徒와 有緣弟子들이 追慕의 뜻을 모아 이를 永遠히 保存하기 爲해 이 淸凉池 자리를 占卜하여 律師스님의 行跡碑와 함께 舍利塔을 세우니 大律師의 護法弘律과 偉業卓跡을 贊銘하는 바이다. 銘曰

俗緣
宿世의 願行따라 나투신 江原平昌
文殊의 常住處로 佛法의 聖地인데
父親은 關東班族 老莊에 精通하고
母親은 光目女로 佛前에 誓願했네
七歲에 童蒙先習 朗朗한 珍富書堂
容貌는 滿月이요 姿態는 依然한데
順治의 百年光陰 僧家의 반낮임을
慧雲堂 因緣으로 홀연히 깨달았네

得度
大丈夫 뜻을세워 世緣을 뒤로하고
海印에 出家하여 一六에 削髮得度
三藏은 梵魚에서 栢樹는 海印聖地
佛影寺 六年結社 本性을 터득했네
龍城堂 大宗師와 擧揚한 西來密旨
靑山은 運步하고 白雲은 不動일세
侵奪된 祖國山河 짓눌린 우리민족
볼수록 可憐하여 落淚로 옷적시다

願行
내祖國 獨立위해 이한몸 던지리라
五臺山 中臺에서 九九日 至心發願
獅子탄 文殊菩薩 戒尺을 傳해줬고
弘律로 佛法再興 스님은 感應했네
五部律 精通한후 傳戒한 大小乘戒
敎化한 善男善女 百八會 十萬餘名
戒定은 禪의根本 經律은 敎의本源
戒律이 基本되어 禪敎가 一致된다

回向
宗團을 愛護하여 山門이 바로서고
六和로 宗團運營 敎團이 興했는데
癸酉年 正月四日 모여든 門徒에게
간곡한 以戒爲師 山川도 슬피우네
大衆의 痛哭속에 茶毗後 남긴舍利
伽倻山 더욱깊고 紅流洞 다시맑다
眞性은 圓明하여 生滅이 없는자리
淸風이 불어올때 明月이 비춰주네

不肖門人 伽山智冠抆 淚 謹撰
東萊後人 松泉鄭夏建 焚香 謹書
佛紀二五四0年(一九九六) 丙子 三月 三日 세우다
제3대 중앙종회 회의록
대각사가 대각회로 양여
『제3대 중앙종회 회의록』(2000, 조계종 중앙종회), pp.388-389.
0001_0073_a_01L혜광의원 ; (1974년) 1월 14일자로 대각사가 대각회로 양여되었는데 어떤 연유에서인지 답변 바랍니다.
(재무부장이 양도승인서 낭독하다)
(별책 참조)
재무부장 ; 대각사는 용성 스님의 사설이어서 했습니다.
영암의원 ; 서설사암 등록을 종용해 왔는데 다른 사암을 양도해 달라고 할 때의 대책은 무엇인지 답변해 주십시오.
재무부장 ; 다른 사암의 경우는 있어서는 안됩니다만 이는 용성 스님의 유업을 진작하자는 뜻이므로 승인했던 것입니다.
암도의원 ; 이건 말이 안됩니다. 본인이 백양사를 빼달라면 빼주겠습니까?
     아직 문공부의 승인이 안 났다니 양여를 철회할 것을 정식 동의합니다.
이두의원 ; 대각사 건은 극히 부당하며 회의 중 소란에 대해 의장단은 책임을 느끼시기 바랍니다.
의장(벽안) ; 의사진행 중 소란이 있어 미안하게 생각합니다.
월탄의원 ; 재산처분은 총무원 결의로 할 수 있습니까?
총무부장 ; 있다고 봅니다. 3년 전부터 이같은 요청이 있었는데 용성 스님의 유업을 계승하자는 뜻이지 본종을 떠난다는 게 아니어서 취해진 것이나 지금의 총무원으로서는 취소하기가 곤란하다고 봅니다.
총무원장(경산) ; 이 문제는 그전에도 있었고 내가 부임하자마자 곧 제기되었으나 직원이 반대하여 못했었으나 분담금도 내고 주지도 총무원에서 발령하도록 한다는 이사진의 각서와 감찰원장 스님의 각서가 있어 취해진 것입니다.
22인의 증언을 통해 본 근현대 불교사
용성 스님을 따라 화과원으로
0001_0074_a_01L선우도량 한국불교근현대사연구회, 『22인의 증언을 통해 본 근현대 불교사』 (2002, 선우도량), pp.67-70.
용명 스님 ; (전략) 오대산에 가서 한암 스님을 찾아뵈니까 스님은 나를 보던지 혀를 끌끌고 차면서 저놈이 드디어 미쳤구나 하시는 거야. 이제 마음대로 다니다가 맥이 빠지면 돌아오라고 하시더군. 그리고서 길을 떠나게 되어서 간 것이 문경 대승사야. 용성 스님이 화엄산림을 하고 계셨거든. 거기 가니까 전관응이 중이 되어서 글을 배우고 있더구만. 정금오, 백금봉, 이백우, 정영신, 윤고암 등이 있었는데 거기서 삼동을 잘 나고 백전면 화과원3)으로 가게 된 거야.
김광식 ; 용성스님은 언제 처음 만나셨습니까?
용명 스님 ; 용성 스님은 을축(1925)년에 내가 화엄사 진진응 스님 밑에서 글 배우다가 음력 6월달에 서울에 올라갔는데 한암 스님은 봉은사 조실이고 용성 스님은 대각사 조실이었어. 그때 안내하는 사람이 대각사로 인도해서 그때 처음 만났지. 용성 스님하고 인연이 있어서 여러 번 만나고 함양 화과원 하실 때도 같이 갔었어.4)
김광식 ; 대승사 화엄산림할 때 강사를 용성스님이 하셨나요.
용명 스님 ; 용성 스님은 오셔서 계만 설하고 화엄산림은 거기 있는 강사가 했어.
김광식 ; 화과원에 가셨을 때 수좌들이 몇 명이나 있었습니까?
용명 스님 ; 용성 스님하고 수좌들하고 사이가 안 좋았어. 용성 스님은 수좌들이 무식하고 박복해서 도 닦을 자격이 없다고 해서 업신여긴 경향이 있었다고. 또 수좌들이 화과원에 잘 안 갔어요. 그런데 스님은 날 참 좋아했지. 한암 스님한테 있으면서 음력 그믐달에 대각사로 용성 스님을 찾아 갔는데 염중현이라는 사람이 있었어. 그 사람이 관상을 볼줄 알아. 용성 스님이 나를 잘 봐서 염처사 보고 관상을 봐달라고 했지. 그랬더니 그 염처사가 하는 소리가 ‘산 위에서 크게 소리를 낼 것이며 동시에 삼천세계에서 크게 재물을 가질 것이다’라고 하는 거야. 용성 스님이 그 말을 듣고 좋아하는 거야. 그래서 내가 여러 번 용성 스님을 찾아 뵙게 되고 나보고도 오라고 해서 친해졌지. 함양에 갈 때에는 과수원이니까 일을 해야 하거든. 그런데 수좌들은 일하기 싫어 했어. 용성 스님은 그런 수좌들을 싫어 했어. 나하고 표회암하고 김경성하고 세 명이 모시고 갔어. 영은사 터에 농막이 있었는데 용성 스님의 친동생이 한 명 있었어. 농사짓고 가난하게 살았지. 화과원은 산이 전부 5,000평이라고 하던데. 용성 스님을 따르던 최상궁이 돈을 줘서 그 산을 샀다고. 밤나무, 능금나무를 심고 용성 스님 동생이 산 지키고 살았다고. 화과원에 작은 법당이 있었는데 불상은 안 모시고 대각을 상징하는 원상만 그려 모셨어. 스님은 그때 중들도 싫어하고 불교라는 이름을 그만두고 대각교라고 하자고 그랬지. 그러니까 중들이 떨어져 나갔지. 또 용정에 화과원을 만들어 농사를 지었지.5)
김광식 ; 최근 용성 스님의 문도들은 그때 용성 스님이 화과원에서 나온 돈을 가지고 상해 임시정부로 보냈다고 주장하는데요?
용명 스님 ; 그건 문도들이 하는 소리이고, 화과원에서 돈도 나오지 않았고 최상궁이 돈을 내가지고 땅도 사고 집도 사고 먹을 것도 댔지. 그때 돈 나올 데가 없었다고.
김광식 ; 일본 순사들이 쫓아다니거나 감시하거나 하지 않았나요.
용명 스님 ; 그런 건 없었다고. 용성 스님은 선지식으로 이름이 나가지고 선만 가르치고 수도만 했기 때문에 그러한 일은 없었어. 밖으로 나타나게 활동한 게 아니니까. 내막으로는 살폈는지 모르지만 겉으로는 그런 건 없었다고.
김광식 ; 그 밑에 용성 스님 동생도 있었지만 동네 부락 사람들이 같이 와서 농사도 지었다고 그러던데요?
용명 스님 ; 동생이 일꾼들 데리고 와 가지고 품삯 주고 일을 했지. 나는 그때 성격이 난폭해서 동네 사람이 화과원에 나무하고 풀 뜯으러 오면 때려서 내쫓았거든. 그러다가 동네 사람이 참지 못하고 나를 생화장시킨다고 회의를 하고 나를 죽이러 온다는 거야. 그래서 모두들 놀라 나는 팔공산으로 도망갔지.
김광식 ; 당시 화과원이라는 간판이 있었습니까?
용명 스님 ; 판대기에다 한문으로 함양군 백전면 화과원, 옆에다 선원이라고도 써놨어요.
산중일지
선학원을 찾아가다
현칙, 『산중일지』(2003, 지영사), pp.12-16.
0001_0076_a_01L1931년 3월 중순경에 동아일보 기자로 있는 김학송(金鶴松) 형에게 입산 안내를 청하였더니, 유엽(柳葉) 선생을 소개하기에 선생과 함께 안국동 선학원을 방문하였다.
주인이 출타하여 건넛방에 기거하던 한용운 화상을 먼저 방문하였다. 주인을 기다리면서 이야기를 하던 중, 인생문제가 거론되어 ‘일체 인간은 목적 없이 산다’는 말이 나와서 내가 말했다.
“왜 그래요? 나는 분명히 목적이 있지요.”
“목적이 무엇이오?”
“인생의 목적이 무엇인가를 알기 위해서 살지요.”
내가 대답하고 두 사람의 얼굴을 얼른 둘러보니, 한용운 화상은 깜짝 놀라는 빛이 보이고 유엽 선생은 아무렇지도 않은 듯했다.
얼마 후에 주인이 돌아왔기에 인사를 하고 입산하여 출가하겠다〈p.12〉(‘선학원의 옛모습’ )는 뜻을 대략 말하였다. 그때 선학원은 중창기라고 할 만한 시절이라, 많은 사람들을 접대하기 위하여 약간의 악기를 비치하고, 악사(樂師)를 청해서 간이 습악소(習樂所)를 설치하였다. 나는 양금과(洋琴科)의 일원으로서 연습을 하였다. 이렇게 수주간을 다니면서 간간이 주인과 이야기를 나누는 동안에 매우 친근해졌다.
이어서 입산하여 승려 되는 절차에 대한 안내를 간청하였더니, 주인은 먼저 거사계를 받으라고 하였다. 그리고 4월 8일 용성(龍城) 화상을 초청하는 기회가 있어 거사계(居士戒)를 받게 되었다. 거사호(居士號)는 종래 사용하던 동초(動初) 그대로 하고, 다음과 같은 글귀를 받았다.

두 뿔이 황금인 쇠소와
두 발굽이 백옥인 나무 말은
설산의 부드러운 향초가 그리워
깊은 밤 달을 잡고 앞개울을 건너다.
鐡牛對對黄金角 木馬雙雙白玊蹄
爲愛雪山香草細 深夜秉月渡前渓

‘동초’라는 호는 19세 때 서울 낙산(落山)에서 일주일간 묵념 끝에 지은 것이다. 간단히 말한다면 일체 사물을 막론하고 우주 전체는 오직 한 움직임뿐임을 간파했으니, 이 움직임이 비롯되기 전은 진허(眞虛)〈p.14〉 진무(眞無)라 아무것도 말할 여지가 없다. 또 움직임이 시작되면서부터 무한히 거듭됨에 따라 공간적으로 동서가 나눠지고 시간적으로 고금(古今)이 달라 천차만별의 삼라만상이 나타남에 본체는 은폐되고 그림자만 들어나 움직이니, 진선미의 극치는 최초(最初)의 한 움직임(一動)일 뿐이다. 그래서 그때 호를 ‘동초’라고 한 것이다.
주인에게 입산을 안내하라고 독촉하였으나 잠시 기다리라고 해서 또 얼마 동안 있었다.
하루는 주인이, ‘내일 밤에는 조선에서 수행으로 제일인인 만공(滿空) 화상의 설법이 있으니 꼭 참석하라’고 해서 저녁식사를 일찍 마치고 부지런히 주인을 쫓아갔다.
이미 설법을 들으려는 대중들은 법당에 가득하고, 정악전습소(正樂傳習所)에서 초청한 악대들은 주악의 준비를 마쳤다. 주악이 끝나자 법사가 등단하였는데, 신체가 장대하고 용모는 준수하여 장부답게 생겼다. 그러나 그 의복차림으로 보아서는 산중 수도인의 복장으로는 너무 화려하고 세련된 것이 눈에 매우 거슬렸다.
좌정하고 곧 『금강경(金剛經)』 일절을 낭송하니, 즉 ‘모든 상(相 : 모습)이 있는 것은 모두 허망한 것이다. 만약 모든 상(相)이 실상이 아니라는 것을 본다면 곧 여래를 볼 수 있다’ 하였다. 음성도 좋고 ‘곧 여래를 본다(卽見如來)’라 함은 과연 재미있는 말이다.〈p.15〉 그러나 소년 초학자가 이러한 소리를 하였다면 그 재주가 가상하다고 등을 한 번 두드려줄 만도 하지만, 고승대덕의 언사로는 너무도 새삼스러울 뿐이다.
또 주악에 대하여 삼현(三絃 : 古樂을 보통 三絃六角이라고 부름)을 들어 우리 불문(佛門)에도 삼현(三玄)이 있다고 몇 마디 말을 하는데, 현(絃)과 현(玄)을 분간치 못하는 듯 싶고 별 뜻도 없는 ‘우리 불문’이라는 말이 귀에 매우 거슬렸다. 불문이니 유가(儒家)니 하고 구태여 꼬집어 부를 것 없이 누구든지 오직 진리만 따를 것이요, 사리의 합당 여부만 물을 뿐이지, 불(佛)이나 유(儒)나 무엇이건 가릴 필요가 없을 것이다. 더구나 ‘우리 불문’이라고 하는 것은 아무래도 나는 옳고 다른 쪽은 그르다는 분별심이 내포된 소리 같았다. 요컨대 오늘밤 소감은 호감이라기보다 유감에 가까웠다.
법석(法席)이 끝나고 내가 나가려고 하였더니 원주 스님이 만류하고, 한편으로는 한용운 화상이 나를 끌고 법사인 만공 스님에게 가서 인사 소개를 하였다. 만공 화상의 태도나 언사가 수도인이다 싶은 느낌은 조금도 없고 교제술에 능한 사회인을 마주하는 것과 같아서 어제 원주 스님이 만공 화상을 칭찬하던 말은 도무지 믿음이 가지 않았다.
원주 스님이 나를 만공회상(滿空會上)으로 인도하려다가 위와 같은 나의 소감을 듣고 생각을 바꾼 듯, 얼마 후에 한암(漢岩) 화상에게 소개하는 편지 한 장을 써주었다.〈p.16〉
근대 선원 방함록
해인사 선원 방함록
己巳年(1929) 冬安居, 『근대 선원 방함록』 (2006, 조계종 교육원), p.82.
 職名 法號 法名 俗姓 年齡 本寺 備考
 祖室 龍城 震鐘  白 六十七 本寺
금오스님과 불교정화운동
금오 스님 정화와 용성
『금오스님과 불교정화운동』(2008, 금오선수행연구원), pp.171-172, p.176.
0001_0079_a_01L금오스님이 불교정화운동에 뛰어든 것은 선(禪) 수행에 대한 실천적 의미 때문인데 용성 스님으로부터 그 영향을 많이 받았다. 당시 한국불교가 일본의 왜색불교에 의해 대처승들이 사찰을 장악하자, 용성 스님은 비분강개하여 조선총독부의 내무대신 남차량에게 대처육식을 하는 대처승들을 몰아내고 정법을 수행하는 비구승에게 수행사찰을 줄 것을 요청하는 1~2차 건백서를 올렸다.
이두 스님은 여기에서 매우 중요한 사실을 금오 스님으로부터 전해들었다고 한다. 종로 대각사에서 금오 스님이 3년 동안 용성 스님을 시봉했다는 것이다. 이 이야기는 지금까지 알려지지 않은 중요한 사실이다.
“용성 스님은 독립운동 33인 민족대표로서 독립운동 성명서에 날인했다는 이유로 2년 동안 옥고를 치른 독립운동가셨습니다. 금오 스님은 이런 용성 스님을 3년 동안 시봉했는데 금오 스님은 그를 존경했고 흠모했다고 내게 말한 적이 있습니다.”
불교정화운동의 최초의 산실(産室)이 된 금오 스님의 수행사찰 요구는 바로 용성 스님의 건백서에 실린 내용과 거의 같다는 점에 주목해야 한다. 즉 이 증언만으로도 금오 스님이 한국 불교사에 큰 획을 그은 불교정화운동의 최초 발의자라는 사실을 능히 짐작할 수 있기 때문이다.
“우리 금오 스님은 용성 스님의 사상적 영향을 아주 많이 받았습니다. 특히 독신수행과 포교의 사명을 용성 스님을 통해 배웠다고 늘 내게 말씀하셨는데 달리 말하면 용성 스님은 금오 스님의 정신적 스승이라고 말할 수 있습니다. 또한 금오 스님의 그러한 가풍은 용성 스님의 가풍과 일치합니다.”
(중략)
또한 이두 스님은 금오 스님이 해방 이후에도 용성 스님의 정신을 이어받아 범어사 선방에서 수많은 수좌들과 동고동락하며 수행자상을 보여주었다고 한다. 당시 제자들에게 용성 스님에 대한 이야기를 매우 많이 하셨는데 ‘중노릇’을 해도 용성 스님처럼 해야 한다고 입버릇처럼 이야기하셨다고.
“용성 스님은 법과 인품을 동시에 가지신 분이었으므로 그런 수행가풍이 선방에서 정진할 때도 자연스럽게 드러났습니다. 그래서인지 금오 스님은 용성 스님같이 항상 법과 행이 일치해야 한다고 주장하셨습니다.”
금오 스님도 이러한 용성 스님의 가풍을 이어받았다. 그래서 불교정화운동 당시 주장하신 것도 바로 계율에 의해 정화하자는 것이었다.
響聲
자운 스님과 최상궁
묘엄 구술·김용환 정리, 『響聲』(2008, 봉녕사승가대학), pp.199-202.
0001_0080_b_01L스님은 금화사와 월내 묘관음사를 거쳐서 이번에는 통도사로 옮기셨는데요, 통도사로 가신 이유는 무엇입니까?

그때 자운 스님이 통도사 감로당에 노전 스님으로 계셨어. 그땐 감로당이 노전채였거든. 그래 우리가 율을 배우러 통도사 보타암으로 간 거야. 그때 감로당에는 상좌 지관 스님, 보경 스님, 보일 스님, 월산 스님, 불국사 주지를 한 상좌 종원 스님, 그런 스님들이 다 계셨어. 그래 통도사에 가서 자운 스님께 『사미니율의(沙彌尼律儀)』부터 쭉 배우고 『비구니율의』도 배우고 그랬지. 그런데 참고로 율장을 봐야 되거든, 『비구니율의』나 『사미니율의』가 어찌 성립이 되었는가는 율장을 봐야 아는데, 우리가 한문이 짧으니까 『율장』을 직접 볼 수가 없었어. 일본글로 번역이 된 기 있어도 그때는 돈도 없고, 그 책 사 볼 여유가 없었어. 그래서 자운 스님이 우리한테 비구니계를 가르쳐주는데 어떻게 했냐면은, 비구니계 제목만 쭉 있는 책을 가지고 거기에다가 스님이 『율장』에 있는 말을 덧붙여서 알려줬어. 그래 스님 말씀을 들으면서 ‘율장 내용이 이런 거구나.’ 알고 노트에 기록하고 마음에 간직하고 그랬어. 그리해서 『율장』은 직접 못 본 채 『사미니율의』를 들었지. 당시에는 제대로 된 책이 없어서 공부하는 데 애를 먹었어, 그런데 공덕화 보살이라고 나중에 출가해서 혜관(慧觀) 스님이 되신 그분이 자운 스님께 삼천만 환을 바쳤다 그래. 그래 자운 스님이 그 돈을 시주받아서 9·28수복 뒤에 보경 스님하고 같이 서울에 올라갔어. 『율장』이나 불교책들이 서울 대각사에 있었거든. 백용성 스님이 가지고 있던 것, 또 자운 스님이 도서관에 다니면서 전부 빼끼 썼던 『율장』 원고 같은 기 전부 거기 있었어. 그래 그걸 가지러 서울에 올라간 거야. 그런데 수원까지 갔는데, 도강증이 없어서 서울에 들어갈 수가 없어. 그때는 도강증(渡江證)을 받아야 서울에 들어갈 수 있었다꼬. 게다가 당시 불교의 존재가 별로 없고 또 큰스님에 대한 인식도 없고 하니까 스님 신분으로는 도강증을 받을 수가 없는 거야. 그런데 목사는 도강증을 받는다꼬. 그래 자운 스님하고 보경 스님이 양복을 해서 입고 중절모자를 쓰고 해서 목사로 가장을 해가지고는 도강증을 발급받고 서울에 들어갔다 그래. 그런데 그걸 다 싣고 오려고 하니까 분량이 많아서 사람 타는 데는 도저히 실을 수가 없어. 다행히 공덕화 보살이 돈을 넉넉하게 줘서 기차 고빼를 하나 사가지고 거기에 그걸 싣고 사람이 탔다 그래. 자운 스님이 서울에 갔을 때 최상궁이라는 이를 만났는데, 고종황제를 모시던 분이었어. 그이가 일제시대 때 백용성 스님을 신(信)했는데, 자운 스님이 백용성 스님 상좌라고 해서 극진히 후원을 했다 그래. 나중에 자운 스님이 얼핏 한번 얘기를 하신 적이 있어. 한번은 선학원에 갔는데, 최상궁이 뒷방에서 옷을 갈아 입고 자운 스님한테 인사를 드렸대. 그래 스님이 “누구십니까?” 이라니까 용성 스님이 ‘나를 후원해주는 궁중에 최상궁이라는 이’라고 소개를 하면서 순종황제까지 삼대(三代)를 모신 노인이라카더래, 최상궁하고 인연관계가 그리 된다는 거, 부모 자식 간처럼 도와줬다는 말씀을 그때 잠깐 하시더라꼬. 그래 최상궁이 어찌 지내는가 궁금도 하고 만나서 인사도 할 겸 해서 창덕궁 낙선재를 찾아갔는데, 거기 가보니까 윤비마마하고 궁녀들이 피난도 안 가고 그냥 그대로 다 있더란다. 그래 ‘내 고삐가 비었으니까 짐을 가지고 피난을 가자’ 그랬다케. 그렇게 해서 윤비마마하고 최상궁을 모시고 나왔는데, 피난 가서 정착할 곳이 없어. 그래서 구포에 살던 공덕화 보살한테 연락을 해가지고 그 집으로 모시고 갔다꼬. 윤비마마를 보러 사람들이 찾아오면은 방이 두 칸이라 발을 드리우고 그랬다캐. 그때도 그이들은 정부에서 월급인지 배급인지를 줘서 생활이 됐던 모양이야.
율의 중흥조, 자운스님
0001_0081_b_01L그래 기차 고빼에다가 책하고 원고들을 싣고 와서 공덕화 보살이 시주한 돈을 바탕으로 율전을 편찬해서 책자로 만들어 내었어. 그것이 통도사 천화율원(千華律院)에서 출판한 『비구계본(戒本)』, 『비구니계본』, 『사미율의(沙彌律儀)』, 『사미니율의』(1951) 요약이야. 천화율원이라는 이름은 자운 스님이 봉암사에서 지었는데, 구체적인 결실을 본 곳이 통도사야. 그전까지는 율도 없고, 율원도 없었어. 그러니까 자운 스님이 우리 불교계의 율을 중흥시킨 중흥조로 크게 평가를 해드려야 해. 천화율원에서 율이 책자로 만들어져 나온 뒤에는 그걸 강본으로 해서 자운 스님께 사미들도 배우고, 비구들도 배우고 한 거지. 그렇게 해서 『사미니율의』와 『비구계본』, 그리고 『범망경(梵網經)』을 자운 스님께 배웠어. 『범망경』이 계율의 근본이거든.
고암법어록
古庵大宗師 行狀
고암문도회 편, 『고암법어록』(2011, 조계종출판사), pp.24-39.
탄생
1899년(己亥 1세)
큰스님께서는 서기로 1899년 10월 5일 경기도 波州郡 積城面 食峴里 425番地 양주윤씨(楊洲尹氏) 가문(家門)에서 탄생(誕生)하시었다. 부친은 연담거사(蓮潭居士) 양주윤공(楊洲尹公) 문(炆)이시고 모친(母親)은 하동정씨(河東鄭氏) 원행(圓行)이셨다.
이름은 뜻志字 호걸豪字 지호(志豪)라 하였다. 큰스님을 잉태한 원행보살님은 항상 고시문(古詩文)을 읽기를 좋아하였고, 상한 음식 먹지 않고, 좋은 마음과 좋은 생각만 하고, 태몽은 산신령이 찾아와서 큰 소나무 한 그루 주고 갔다고 한다.
출가(出家)와 수학(修學)
1906~1910년(7세에서 12세)
서당에서 한문공부와 더불어 사서삼경을 배움.〈p.24〉
1910~1914년(11세에서 16세)
파주군 적성면 적성보통공민학교를 다님.

1914년(16세)
서울 경성에 용성 큰스님이 훌륭한 가르침을 준다는 말을 듣고 무작정 서울로 상경하여 봉익동에 가셨다. 대각사를 창건하시고 전법하시는 용성 대종사를 만나 뵌 후 법문을 듣고 나서는 출가 결심을 하셨다.

1917년(19세)
오래간만에 상경하여 용성 선사를 뵙고 출가의 뜻을 말씀드리니 여기는 행자가 있을 만한 곳이 아니다 하시고 양주(지금 서울 도봉구 수유리) 화계사(華溪寺)로 보내어 그곳에서 행자생활을 처음으로 하셨다.
1917년 9월 화계사에 있다가 해인사로 가고 싶은 생각이 들어서 용성 대종사님께 말씀드리니 해인사 주지였던 당대의 대선지식이신 제산(霽山) 대종사께 편지를 써주셔서 해인사로 가셨다.〈p.25〉
득도(得度)와 수행(修行)
0001_0083_b_01L1917년(19세)
해인사에 가서 편지를 내보이니 제산 큰스님은 빙그레 웃으시면서 수행 잘해 보거라 하시었다. 큰스님을 시봉하다가 7월 제산 대종사님을 은사로 득도하셨다.

1919년(21세)
해인사 강원에서 사집과를 수학하시고, 1919년 3월 기미독립만세운동에 참석하기 위해 서울 대각사에 올라오셨다. 그때 용성 대종사님은 이미 서대문 구치소에 구금된 상태였다. 스님은 큰스님을 면회하였는데 용성 대종사님은 내 걱정은 하지 말고 열심히 수행하여 종사(宗事)를 맡으라 하시었다. 만세운동으로 전국이 혼란스럽고 국민은 거리로 나와 방방곡곡에서 만세를 불렀다. 이때 스님은 서울에서 용성 스님의 뜻을 받들어 만세운동에 참가하여 은밀히 독립운동을 하시었다.

1920년 3월(22세)
해인사로 다시 내려오시어 해인강원 사집과 수료하시고 길을 떠났다. 시국은 너무 어수선하고 용성 대종사님의 안위가 걱정이 되어 다시 대각사로 오시었다.〈p.26〉

1922년 4월(24세)
용성 대종사님은 1년 7개월 서대문 구치소에서 감옥 생활을 마치시고 해인사에 오시어 4월 1일 해인사에서 구족계를 설하시었다. 용성 대종사를 전계 화상으로 구족계를 수지하셨다.

1923년(25세)
3월 용성 대종사님의 분부로 만주 북간도 용정의 대각교당에 다녀오셨다.

1923년(25세)
해인사 강원에 다시 사교과에 들어가 수학하시었다.

1925년(27세)
해인사 강원 대교과를 졸업하시고 은사가 있는 직지사 천불선원에 들어가서 정진하시었다.

1927년(29세)
하안거 해제 후 용성 스님을 뵈러 서울 올라갔다가 스님의 분부로 다시 만주 용정과 하얼빈에 다녀오시었다. 그리고 통도사 극락선원에서 안거에 들어가셨다.〈p.27〉
수법(受法)과 전법(傳法)
0001_0084_b_01L1930년(32세)
용성 대종사님의 분부로 만주 용정대각교당을 다녀오시는 길에 안변 석왕사를 참배하시고, 다시 함흥을 거쳐서 신계사와 유점사에 가셨다. 유점사 강원에서 뜻하지 않게 강의 요청을 받고 1년여 가까이 강의를 하시고 다시 고봉 스님이 오시니 강의를 맡기고, 나는 장안사를 보고 올 것이라 하시고는 내금강의 표훈사, 장안사, 마하연 등 여러 절을 참방하고 서울로 돌아오셨다.

1931(33세)
일제 총독부에 의해 대각사가 재산을 압류당하자 용성 대종사님은 함안 화과원으로 가시고, 스님은 직지사 천불선원에서 은사이신 제산 대종사를 2년간 모시고 안거하셨다.

1933년(35세)
통도사 극락선원에서 혜월 선사를 모시고 안거하셨다.

1934(36세)
내원사 천불선원에서 용성 대종사를 모시고 안거 중 깨침을 얻고 오도송을 지으시니〈p.28〉

回頭翻身開鐵壁
香水波花萬年春
落東逆流越西天
萬古風月自戱弄
머리를 돌이키고 몸을 뒤집어 철벽을 여니
향수바다의 파도 꽃이 만년의 봄이로다
낙동강이 거슬러 흘러 서쪽 하늘을 넘어 가니
만고의 맑은 바람과 밝은 달이 스스로 희롱함이로다.

이렇게 오도송을 지으시니 용성 선사께서 상언(祥彦) 선사에게 전법게를 주시고 고암(古庵)이라는 당호(堂號)를 주시었다.
(※용성선사와의 문답 참조 p.52)

1935년(37세)
스님은 깨침이 있은 후 제방의 선지식을 찾아 보임(保任)의 시절을 보내시었다. 덕숭산 정혜선원 만공 선사 회상, 도봉산 망월선원 용성 선사 회상, 용문선원 용성 선사 회상, 오대산 상원선원 한암 선사 회상, 유점사, 표훈사, 마하연, 묘향산 보현사 등에서 25하안거를 성만하셨다.

1939년(41세)
해인사 선원 조실로 추대되어 수좌들을 제접하시었다.〈p.29〉

1940년(42세)
2월 24일 용성 대종사께서 열반하셨다는 소식을 듣고 급거 상경하여 형제들과 함께 다비를 맡아 5일장으로 봉행하시었다. 이때 왜경들이 대각교 중앙교당(대각사) 일주문을 지키고 사람들이 모여드는 것을 막아 몇몇 신도들과 제자들이 다비식을 조촐하게 봉행하였다. 대각사는 회암 스님이 주지를 맡으시고 스님은 다시 해인사로 내려가시었다.

1944년(46세)
해인사에서 대선사 법계를 품수하셨다.

1945년(47세)
해방 되던 해 3월 전라남도 나주 다보선원의 선원장이 되시어 수좌들을 지도하시었다. 다보선원에서 해방을 맞으시어 기쁨을 나주 모든 불자들과 함께하시었다고 한다. 그해 9월에 신도들에게 보살계를 설하시었다. 이후로 각처에서 스님에게 보살계를 설해줄 것을 요청하여 경향 각지에 보살계를 설하시게 되었다.

1950년(52세)
6·25 남북전쟁이 발발하여 한반도는 전쟁의 참화 속으로 빠져 들어갔다. 이때 스님은 의연하게 나주 다보선원을 지키시었다. 스님의 일화가 하나 있다. 당시에 낮에는 국군과 경찰이 들이닥쳐 밥 지어 달라 하면 밥을 지어주고, 밤에는 인민군이 들이닥쳐〈p.30〉 총을 겨누고 밥 지으라 하면 밥을 지어주고 하였다. 하루는 원주스님이 스님께 이렇게 물었다고 한다. “도대체 선원장 스님은 어느 편이십니까?” 스님 답하시길, “나는 사람 살리는 편이네. 알겠는가?” 하시었다고 한다.

1953년(55세)
3월 10일 해인사에서 대종사 법계 품수를 받았다.
이때 한국 불교는 홍역을 앓고 있었다. 1953~1963년간에는 6·25한국전쟁이 끝나자 종단은 정화운동에 휩싸이게 된다. 비구들이 전국의 모든 사찰을 장악한 대처승들에게 나가 줄 것을 요구한 것이다. 처음에는 삼보사찰인 통도사, 해인사, 송광사를 요구하다가 이것이 관철되지 않자 비구들이 들고 일어난 것이다.
1955년(57세)
창원 성주사 주지로 취임하시었다.

1958년(60세)
1930년 열반하신 은사 제산 대종사님의 본사인 직지사를 맡아 주지에 취임하시었다.

1962년(63세)
직지사 주지를 사임하시고 해인사 용탑선원으로 자리를 옮기시었다. 용탑선원 조실이 되시어 용성 대종사님의 탑전을 지키시〈p.31〉기로 마음먹으시었다. 그리고 용탑선원에 불사리탑을 조성하시고 석굴법당과 아미타삼존불상을 모시었다.

1967년(69세)
선찰대본산 범어사 조실, 범어사 금강계단 전계화상이 되시었다. 7월 27일, 대한불교조계종 3대 종정으로 추대되셨다. 종정을 하실 분들이 많은데 왜 내가 해야 하는가 하시면서 극구 사양하시었으나 당시 비상종회(해인사)에서 고암 대종사를 적극 추대한 것이다.

1969년(71세)
직지사 조실로 추대되셨다.
9월, 재단법인 대각회 이사에 선임되셨다. 대각회는 대각사를 창건하신 용성 대종사님의 유지를 받들고 그 사상을 널리 펴자는 뜻에서 이뤄진 것이다.

1970년(72세)
해인사 2대 방장으로 추대되어 종정과 방장, 중책을 맡으시었다.

1972년(74세)
7월 24일, 대한불교조계종 제4대 종정에 재추대되셨다. 당시에는 종단의 3대 과제가 도제(徒弟), 역경(譯經), 포교(布敎)였다. 그리고 불교 명절인 부처님 탄신절을 공휴일로 제정하는 것이 시급〈p.32〉한 일이기도 하였다. 스님은 당시 총무원장인 경산 스님에게 이 일을 반드시 이뤄내도록 독촉하셨다.

1973년(75세)
설악산 신흥사 조실로 추대되셨다. 당시 신흥사 주지는 상좌(上佐)인 성준(聲準) 스님이다.

1974년(76세)
1974년 3월, “부처님오신날” 한 달 정도 남겨놓고 석가탄신일이 공휴일로 문화공보부를 통하여 선포되었다. 전 종도의 숙원이었던 공휴일로 제정된 것이다. 이때 스님께서도 무척 기뻐하셨다. 그리고 담담히 한 말씀 하시기를, “종단에는 할 일이 아직도 많다”고 하시었다.〈p.33〉
떠나도 늘 그 자리에……
0001_0087_b_01L1976년(78세)
스님은 홀연히 종정 사임을 하시고 일본 고려사, 청광사 등지에서 국제 보살계를 설하시었다. 일본 고려사와 보현사는 태현 스님이 일본 교포들을 위하여 설립한 절이고, 청광사는 상좌(上佐)인 정원(淨園) 스님이 창건한 절이다.

1977년(79세)
대각사 조실로 추대되셨다.

1978년(80세)
노구를 마다하지 않으시고 미국 하와이를 방문하시어 대원사에서 보살계를 설하시었다. 하와이 대원사는 스님이 종정 당시에 기 대원 상좌에게 분부하시어 대원사를 짓게 하시었다. 이어 L.A 관음사에서 국제 보살계를 설하시고 인도 성지순례와 구주(歐洲)를 두루 살펴보시고 돌아오시었다.
5월 6일, 종단에서는 제6대 종정으로 다시 추대되셨다. 5대 종정이시던 서옹(西翁) 대종사님께서 갑자기 종정을 사임하시고 백양사로 내려가시어 원로회의와 종회에서 스님을 다시 추대하게 되었다.
대한민국 불교총연합회가 결성되어 연합회 회장에 추대되었〈p.34〉다. (당시에는 총연합회 회장은 조계종 종정이 당연직이었다.)

1980년(82세)
대한민국 국토통일원 자문위원에 추대(대통령직속 국가기관)되셨다.
2월에 용성문도회 문장으로 추대되셨다.
미얀마, 태국, 인도 등 동남아 불교국가를 순방하시고 오시었다.

1981년(83세)
스님은 새해를 맞아 “나는 이제 너무 늙어 종사를 돌볼 수 없다.” 하시고 종정직을 사임하셨다.

1982년(84세)
종정 짐을 놓으시고 해인사 용탑과 부산 보타원, 서울 대각사, 설악산 신흥사에 주석하시면서 노구(老軀)에 때로는 보살계를 설하시기도 하시고, 또 미국이나 일본에 머물기도 하시었다.

1985년(87세)
7월 28일, 호주 불광사 주지 장산(上佐)이 초청하여 보살계를 설하시고 호주 불광사에서 5개월간 주석하시었다.

1986년(88세)
스님은 세수 구십을 바라보면서 대원에게 서울 대각사에서 법장(法杖)과 불자(拂子) 및 가사와 발우(鉢盂)를 신표로 전하시고, ‘학〈p.35〉산(鶴山)’이라는 법화와 다음의 전법게를 내려주셨다.

佛祖傳心法 불조가 전한 심법은
不識又不會 알지도 못하고 또한 알지도 못함이라.
趙州茶一味 조주의 차 맛이 일미이거니
南泉月正明 남전의 달이 정히 밝도다.

1987년(89세)
대각회 이사들의 요청을 받아들여 대각회 이사장직을 맡으시었다.
열반
0001_0088_b_01L1988년(90세)
세수 90, 무진년 양력 9월 14일 노구(老軀)를 무릅쓰고 한 사람이라도 불계(佛戒)를 받을 이가 있으면 내가 찾아 가신다는 평소의 의지대로 미국 샌프란시스코에 있는 삼보사에 보살계를 설하기 위하여 찾아 가신 것이 스님의 마지막 법문 길이었다. 스님의 몸은 연로(年老)하시어 몸은 쇠약하여지고 병세는 여의치 않았다. 10월 25일(음력 9월 15일) 오후 8시경 많은 문도들이 모인 가운데 이연입적(怡然入寂) 하시었다.

오후 8시, 해인총림에 대종사님의 열반을 알리는 범종 108번이〈p.36〉 울리니 가야산에 메아리쳤다.
다비
0001_0089_a_01L해인총림 관음전과 용탑선원 두 곳에 조문객을 받기 위하여 큰스님 영정을 안치하고 조문 받을 준비에 바빴다. 종단에서는 대한불교조계종 종단장으로 7일장을 선포하고 만반의 준비에 들어갔다. 서울에서 내려온 의현 총무원장 스님, 정대 종회의장 스님 등 종간의 중요 직책의 스님들이 다음날 속속 해인사로 모이고 장례준비를 숙의하였다. 당시 노태우 대통령이 조문하였으며, 국회의장 등 각 정당 대표와 종단 대표, 전국 도지사, 시장들의 조문과 조화가 도착하여 총림을 덮었다. 그리고 스님과 인연 있는 분들의 조문이 이어지고 조화와 조전들도 쌓여갔다.

영정이 모셔져 있는 관음전에서는 스님들의 금강경 독송과 산내암자 스님들, 제방의 선원과 강원 스님들도 모여와 독송을 하고 분향하였다. 서울 부산 각처에서 온 불자들의 흐느끼는 모습도 가끔 볼 수 있었다. 평소 자비보살로 이름나 있던 스님은 가진 것이라고는 법문 노트 몇 권과 염주, 주장자, 옷 한두 벌, 가사 한두 벌 정도가 전부였다. 무소유로 일관하신 청정한 수행의 표본이셨던 스님을 이제 뵙지 못한다는 마음에 문도들로 하여금 마음이 더 아파왔다.〈p.37〉

7일이 되던 다비식 날에는 KBS, MBC, SBS 등 각 방송사들과 각 신문기자들과 불교신문 등 교계 언론사 및 국내외 각처에서 온 카메라맨들이 숲을 이루어 식장 주위를 에워싸고 조계종을 위시한 각 종단의 5천여 스님들과 3만여 불자들이 해인총림을 가득 메웠다. 문도들은 이제 은사스님의 마지막 가시는 길을 모신다는 생각에 모두가 숙연할 수밖에 없었고 불자들도 마찬가지였다.

아침 10시 정각에 서른세 번의 범종소리가 울리면서 다비식은 봉행되었다. 고불문(告佛文)에 이어 문도들을 시작으로 종단 중요 직책 스님들과 내빈의 순서로 영전에 분향과 헌화를 마치고 나서 성철 종정께서 ‘고암대종사 영전에 올리는 조사’를 올리고, 총무원장, 종회의장, 각 정당대표 문화체육부 장관 등 한 시간 반 동안 엄숙히 봉행되었으며, 마지막으로 운구가 시작되었다. 해인총림 동구 밖으로 10리길을 인파로 가득 메우고 운구를 따르는 만장 또한 형형색색으로 숲을 이루었다. 스님의 법구는 애도 속에 가야산 서쪽 산 아래 연화대(蓮花臺) 다비장(茶毘場)에 오후 1시경 도착하였다. 모인 대중들의 ‘나무아마타불’ 염불소리가 더욱 커지고 여기저기 흐느끼는 소리가 들렸다. 이제 스님의 법구를 모신 집에 불이 들어갔다. “스님 집에 불났습니다. 어서 나오십시오.”라고 세 번 외치니 금방 다비장은 울음바다로 변했다. 쌓인 장작들이 불꽃을 일으키면서 타오르고 붉은 연꽃이 불꽃으로 화하여 허공으로 사라진다. 만여 군중의 ‘나무아미타불’ 염불소리가 가〈p.38〉야산의 메아리가 되어 어디론가 사라지고 다시 이어지고 이렇게 하기를 시작도 끝도 없이 이어졌다. 이때 한 줄기의 환한 오색 무지개 같은 빛이 가야산 정상 쪽을 덮었다. 사람들은 와~ 하는 탄성이 터져 나왔다. 모두 합장하였다. 이런 모습은 처음이고 또 오래 갔다. 한두 시간여가 지난 후 사람들은 하나 둘씩 하산하기 시작했고 문도들과 지인들만이 남아 다비장을 지켰다.

다음날 아침 10시경에 다비장 잔불은 모두 사그라지고 문도들은 스님의 영롱한 사리를 수습하였다. 사리 무수과를 수습하여 일부는 가야산 서록(西麓) 스승이신 용성 대종사 사리탑전 계하(階下)에 탑과 비를 조성하여 모시고, 일부는 설악산 신흥사 법당 옆 산록에 탑비를 세워 모시었다.

스님 노트의 법문 한 구절을 여기에 남긴다.

부처님 가르침 멀리 있지 않다.
戒律 잘 지키고 法에 어긋나지 않게 살라.
古. 今. 凡. 聖과 地獄, 天堂 따로 없다.
百草花香이 온천지에 가득함이로다.〈p.39〉
龍城禪師와의 問答
고암문도회 편, 『고암법어록』(2011, 조계종출판사), pp.52-56.
0001_0090_b_01L1934년 음 6월 5일(36세시)
내원사 천불선원에서 용성 대종사를 조실로 모시고 벌써 2년째 두문불출 안거 중이었다. 나는 용맹정진에 들어간 지 벌써 2년이 다 되어 간다. 내가 출가한 지가 벌써 15년도 넘었는데 어찌 이렇게 의심을 안고만 살겠는가. 이번에는 반드시 결단을 내고 말리라. 내 생애에서 이번 철에 깨닫지 못한다면 어찌 하늘에 머리를 두고 살리. 묵언(黙言)과 장좌불와(長座不臥), 아침 죽 한 그릇과 오후 불식하면서 용맹정진을 하였다. 한 달이 지나서는 걷거나, 앉아 있거나, 밥 먹거나 화장실 갈 때에도 흔들림 없이 오직 화두가 일여하게 되어 갔다. 이 뭣고? 이 몸을 움직이고, 이 몸이 태어나고 죽는 이놈은 무엇인가? 하는 의심덩어리가 더욱 단단해지고 대의단이 커지고 커져갔다. 6월 5일 정오를 넘어서 밥 먹는 일조차 잃어버리고 앉아 있는데, 마침 소나기가 내리면서 천둥소리가 쾅쾅 우지끈하고 천지가 뒤흔들리었다. 이때 찰나에 마음이 밝아져서〈p.52〉(‘용성선사와의 문답’) 온몸이 가벼워지고 천지가 온통 광명으로 비추는 듯 밝아져 과거 현재 모두가 눈으로 보는 듯 또렷하였다.
얼굴빛이 밝고 청명하여지는 것을 느꼈다. 문을 박차고 나오니 용성 선사가 보시고는 이렇게 물으시었다.
“심요(心要)를 얻은 바가 있는가?”
나는 용성 선사께 여쭈었다. “금강경은 모두 공리(空理)입니까?”
용성 선사 답하시길, “반야(般若)의 공리(空理)는 정안(正眼)으로만 보느니라.” 하시면서 “조주 무(無)자 십종병에 걸리지 않으려면 어찌해야 하는가?” 하고 물으시었다.
답하길, “但行劍上路라. 다만 칼 위를 걸어갑니다.” 하였다.
선사께서 다시 물으시었다.
“世尊拈花 微笑消息의 意旨如何
세존의 염화미소 소식이 무슨 뜻인가?”
나는 답하기를,
“獅子窟中 別無異獸
사자굴 가운데 다른 짐승이 없습니다.”
용성 선사께서 다시 물으시었다.
“육조대사께서 이르시길, 비풍번동(悲風幡動)이라 하였는데 그대 뜻은 어떠한가?”
나는 자리에서 일어나 삼배를 올리고,
“天高地厚, 하늘은 높고 땅은 두텁습니다.” 하였다.
나는 다시 여쭈었다. “선사님의 가풍은 어떤 것입니까?”
용성 선사 답하시길, “나는 주장삼하(拄杖三下)이니라. 그대는 어〈p.54〉떤가?”
“제자도 또한 주장삼하(拄杖三下)입니다.” 하였다.
이때 노사는 껄껄 웃으시면서,
“만고풍월(萬古風月)이로다.” 하시었다.

나는 그 자리에서 다음과 같이 오도송을 지어 용성 대종사께 올렸다.

回頭翻身開鐵壁
香水波花萬年春
落東逆流越西天
萬古風月自戱弄
머리를 돌이키고 몸을 뒤쳐 철벽을 여니
향수바다 파도꽃이 만년의 봄이로다.
낙동강이 역류하여 서쪽 하늘을 넘어 가니
만고풍월을 스스로 희롱함이로다.

이렇게 게송을 올리니, 이때 용성 선사께서는 “선재선재라.” 하시고 게송을 주시었다.

萬古風月知音者誰
古庵獨對風月萬古로다.
만고에 풍월을 아는 자가 누구런가.〈p.55〉
고암을 홀로 대하니 풍월이 만고로다 하시었다.

다시 용성 선사께서 게송을 읊으시었다.

佛祖元不會
掉頭吾不知
雲門胡餠團
鎭州蘿菊長
부처와 조사도 원래 알지 못하고
나도 또한 알지 못함이라.
운문의 호떡은 둥글고
진주의 무는 길기도 하다.

라는 전법게를 내려주시고 古庵堂이라는 당호를 내려 주시었다.〈p.56〉
성철스님 행장
용성스님과 성철스님
『성철스님 행장』(2012, 글씨미디어), p.35, pp.41-42.
0001_0093_a_01L그리하여 성철 큰스님은 용성, 동산, 성철로 이어지는 한국 불교계의 큰 선맥을 잇게 된다. 그 무렵 한국불교는 일본의 식민지 정책에 의해 승풍(僧風)이 흐트러질 대로 흐트러져 있었다. 이에 스님은 피폐해진 이 땅의 불교 속에 참선으로써 진리의 문을 열리라는 서원을 세우고서, 여러 이름난 선원을 다니며 화두 삼매의 선정에 들어갔다. 동산 스님을 따라 범어사 금어선원에서 하안거 철을 난 성철 스님은 같은 범어사 산내 암자인 내원암으로 가서 용성 스님을 시봉하였다.
그 무렵 용성 큰스님은 어떤 스님을 보아도 스님이라 하지 않고 “선생, 선생”이라고 불렀는데 손상좌인 성철 스님께만은 웬일인지 “성철 스님”이라고 불렀다. 성철 스님이 그 까닭을 여쭈니 “다른 중들은 스님이라고 부를 사람이 없어. 그런데 너를 대하니 스님이라고 부를 만하다는 생각이 들어”라고 하였다. 용성 큰스님은 그렇듯이 성철 스님을 미더워하여 서울로 옮겨갈 때에도 성철 스님을 시봉으로 데려가려 하였다. 그러나 스님은 대답은 “예” 해 놓고 큰스님을 부산역까지만 모셔다 드리고 그 길로 줄행랑을 쳤다. 오로지 한 마음으로 공부할 시간을 갖기 위해서였다.〈p.35〉
25세 1936년
해인사로 거처를 옮겨 퇴설당에서 참선정진을 하였다.(중략)
동산 스님을 따라 범어사로 옮겨 범어사 금어선원에서 하안거를 지냈다. 범어사 안거증에는 스님의 출생년도가 메이지(明治) 42(1909)년으로 되어 있다. 그 후 동산 스님은 태백산 정암사에서 효봉(曉峰) 스님, 혜암(惠菴) 스님과 하안거 후 해인사 조실로 옮기고 스님은 범어사 원효암에서 동안거를 지냈다. 이때 조실은 용성 스님이다. 동안거 기간인 11월 18일(음력 10월 16일)에 용성 스님이 동산 스님에게 계맥을 전수하는 자리에 스님도 함께했다.〈p.42〉
무구자 도인 주해, 반야심경
용성 스님의 수좌 제접
대원, 『무구자 도인 주해, 반야심경』(2012, 불광출판부), pp.16-17.
0001_0094_b_01L대각사의 용성(龍城, 1864~1940) 스님께 전강(田岡, 1898~1975) 스님이 찾아오셨습니다. 용성스님이 물었습니다.
“영신아!”
“예!”
“공부를 많이 했다고 하니 하나 물어보자.”
“예! 하문하시지요.”
“어느 것이 제일구第一句이지?”
“예?”
용성 스님께서는 전강 스님이 잘못 들은 것 같아 다시 “영신아!” 하고 불렀고 전강 스님은 “예!” 하고 대답했습니다. “이것이 일구이니라.” 그러자 전강 스님께서 일어나 손뼉을 치면서 “큰스님께서 살피지 못했습니다.” 하고 문을 열고 나가니, 용성 스님이 말씀하시길, “내가 너에게 속았다.” 하셨습니다. 선지식은 원래 납자衲子를 점검해 보기 위해 일부러 속아 주는 것입니다. 그러면서 납자를 간파하여 점검하는 것입니다.

이것은 공부하여 대지혜를 밖으로 드러내어 쓸 수 있는 그런 세계에서 오고간 말입니다. 용성 스님께서 납자의 공부 깊이가 어떠한가 알기 위하여 방망이 맞을 요량으로 하고 납자 속으로 들어가신 것이지요. 일단 언하에, 눈 마주칠 때에 간파했으면서도 재차 물어 보는 선지식이 많습니다. 그러면 안으로 공부한 내용과, 알고 있는 것을 밖으로 어떻게 표현하는지 볼 수 있습니다.
대주선사 어록 강설
용성과 박한영, 문답
대원 역, 『대주선사 어록 강설』(上)(2013, 불광출판부), pp.307-308.
0001_0095_b_01L설하는 것도 잘 갖추고 종체에 대한 본분소식(本分消息)도 공부해서 잘 갖춘 사람이면 어느 곳을 갖다 대도 능히 해낼 수 있는 것입니다. 박한영 스님은 일대 명강입니다. 우리나라 3대 강사로 속세에서도 알아주고 불교계에서도 알아줍니다. 그분이 한번 강의를 하면 승속을 막론하고 구름같이 모여 듭니다. 그런 그분이 과거에 용성 스님이 대각사에서 법문을 하는데 뭐라고 불평을 합니다. 그렇게 새기는 것이 아니고 이렇게 새겨야 되는데 하면서 시비를 합니다. 용성 스님이 경에 대한 것을 꺼내서 말하면 한영 스님이 밑에서 자꾸 토를 답니다. 그러니까 용성 스님이 있다가 손을 턱 내밀며 “자 한영이, 이 손이 여〈p.307〉래의 손과 같은가, 다른가?” 하고 물으니 그만 말을 못하고 꽉 막히는 것입니다. “그대가 하는 이야기, 그런 것 가지고 여기서 논할 바가 못 되네.”라고 용성 스님이 말했습니다. 여기서 눈이 있는 사람과 없는 사람이 판가름이 난다는 것입니다.
저는 강의를 하면서 현실에 있는 것을 비교해서 이야기하는 것이 많기 때문에 마음에 인식이 어느 정도 될 것이라 봅니다. 지금은 말법의 시대이기 때문에 정법과 만나기 어렵습니다. 그러므로 좋은 법문을 잘 정리해서 세상에 널리 알릴 수 있는 불사를 하는 것이 중요합니다. 부처님의 말씀은 세상 사람들에게 약이 되는 활구(活句) 법문입니다. 이 말을 잘 정리해서 세상 사람들에게 소개해 준다면 그 불사가 최상의 불사이고 최상의 진공덕이 된다고 『금강경』에서도 말씀했습니다. 법문을 듣는 분도 마음을 비우고 들어서 확실하게 나름대로 정립이 되어야 합니다. 정립이 되어야 어디 가도 당당하고 걸림이 없고 막히지 않습니다.〈p.308〉
청산은 움직이지 않고 물은 멀리 흐르네
동광 선사 일지에 나온 용성
동광, 『청산은 움직이지 않고 물은 멀리 흐르네 - 東侊 慧頭 禪師의 修道傳法記』(2013, 정우서적), pp.58-65.
화담 28세(1927년)
0001_0096_b_01L각황사 법화산림에서 설교하다
경성부 수송동 44번지 조선불교 교무원 주최로 각황사 내에 중앙선원을 설치하고 백학명 선사를 방장으로 모시고 각 대본산별로 구참(久參) 납자들을 모집하여 음력 4월 15일부터 참선을 시켰는데 나는 범어사 수좌 대표로 참석케 되었다.
때마침 칠일(음력 5월 1일~음력 5월 7일) 법화산림을 하게 되어 육대법사 중 일인이 되어 명성이 상당히 높았던지, 그 뒤로부터 각 궁녀(宮女)들이 초청하여 법을 듣는 일이 간간히 있었는데 육대법사의 씨명은 아래와 같다.
 1. 백학명(白鶴鳴) 스님 2. 백용성(白龍城) 스님
 3. 백초월(白初月) 스님 4. 이춘성(李春城) 스님
 5. 이화담(李華潭) 스님(동광 선사의 이름)
 6. 송병기(宋秉機) 스님
태허 28세(1927년)
0001_0097_a_01L삼장역회 교정사로 근무하다
-태허(太虛)는 대각교에서 개호(改號)하여 실행하던 도호(道號)이다.

나는 중앙선원에서 음력 7월 15일 해제 후 경성부 봉익동 2번지 대각교 삼장역회(三藏譯會) 회주 백용성(白龍城) 선사의 간청을 받아 교정사로 근무하였다.

제2회 화엄경 산림 설교
나는 음력 10월 보름경에 시작하여 이춘성(李春城) 법사와 함께 설교하였으며 회향일에는 용성 법사도 설법을 하여 원만하게 회향하였다. 하루는 내가 설교를 마치고 법상 아래로 내려오니 구한국 시대 염(廉) 국장 중모(仲模) 씨가 일어서서 “태허(용성 스님이 지어 주신 동광 선사의 법명) 법사가 승어일우법사(勝於一愚法師, 법사가 일우법사보다 낫다)라 하겠다.”고 하였다. 그 말을 들은 나는 그 이유를 물으니 국장이 답하였다.
“내가 수십년 동안 경성에 있어서 시골에서 어떤 법사가 와서 설법한다는 말만 들으면 반드시 찾아가서 들어 보았는데 금강산 일우 법사가 그중에 제일 설통(說通)이 구족하고 구두(口頭)가 빠릅디다. 그런데 오늘 태허 법사는 설통과 종통이 구족할 뿐만 아니라 그 법사보다 구두가 더 빠르고 선지(禪旨)가 밝고 신식 학문과 각 종교 교리의 지식까지 두루 겸전하였고 음성도 청아하여 열가중심(悅可衆心, 대중의 마음을 즐겁게 하니) 감격지심(感激之心)에서 나온 말입니다.” 이 같은 찬양에 나는 “너무 과찬입니다.” 하고 말하였는데 이것이 나의 제2회 화엄경 설교이다.
태허 29세(1928년)
0001_0098_a_01L대각 일요학교를 설립하다
나는 음력 3월 초에 대각교당 내에 대각 일요학교를 설립하고 교장에 임명되어「被任」 남녀아동들에게 불교정신을 함양해 주고 석존강탄기념식 같은 법식일에는 일요학교 학생 7~80여 명과 교원(남 4인, 여 3인)들을 총동원시켜 학예회 같은 것을 개최하여 일반 신도들에게 신앙심을 고취하여 주었다.

전도게(傳道偈)를 전수받다
-대각교에서 아래와 같은 전도게첩을 받았다.
 示 太虛鍾震 正士
大覺傳心事 棹頭吾不識
午睡方正濃 山鳥又一聲
부처님의 마음 전하는 일은
도두(머리를 절레절레 흔드는 모양)하는 나도 모르겠다.
낮잠은 바야흐로 깜박 들었는데 산새소리 또한 지저귀누나
大覺敎 紀貳年 六月 貳十五日
  大覺敎 第一世主
     白龍城 說 印

위와 같이 제1세주는 나에게 전법게까지 전하고 대각교 제2세주를 삼으라고 했으나 나는 연소함과 그밖에 여러 가지 관계를 말하고 임시로 허운송(許雲松) 스님에게 제2세주의 지위를 사양하여 버리고 교세 발전에만 전심전력하였다.

대각잡지를 발간하다
나는 대각일요학교를 설립하고 또 『대각(大覺)』이란 잡지를 주간으로 발간하여 일요학생 및 교원은 물론이고 일반 신도에게까지 무료로 배부하되 한글만 아는 사람이면 누구라도 알 수 있게 하였다.

대각사 포교사에 임명되고 간사회를 조직하다
대각교당 포교사 백용성 선사께서 경상남도 함양군 백운산(白雲山) 화과원(華果園)으로 수양차 갔었으므로 내가 그 대신으로 포교사에 임명되었고 동시에 음력 7월 초에 대각교 내에 간사회를 조직하고 교세를 확장하려고 진력하였다. 간부들은 아래와 같다.

간사장 ; 염중모(廉仲模) 씨
상무간사 겸 회계주임 ; 태허(太虛) 스님, 성은 이(李)씨
간사 ; 이람전(李藍田), 정준모(鄭俊模) 외 여러 명
서기장 ; 태허 스님

수재의연금 및 의복을 송부하다
나는 음력 8월 초 대각교 경성교당 신도에게 구제금과 남녀의복 합해서 3천여 건을 수합(收合)하여 동아일보사를 경유하여 함경도 수재민에게 송부하였는데 동아일보 창설 이후 의복 3천여 건이 일시에 들어오기는 미증유의 사실이라 하여 일반 사원들은 모두 기뻐하였다.「歡喜不勝」. 금년까지 대각교 총신도수가 20여 만 명이었다.
 (중략)
대각교 삼남 총지부를 설치하다
나는 음력 9월경 대전시 삼정목(三丁目)에 정 처사의 후원을 받아 대각교 삼남(三南) 총지부를 설치하였다가 오정념(吳正念) 스님의 야욕으로 인하여, 나는 마음을 접고 떠났는데 수개월 후에 다시 나를 특청하려 두 차례나 스님과 처사들이 회덕지부에서 왔으나 내가 단념 거절하였다.

대각교 회덕지부를 설치하고 관음기도를 하다
나는 대덕군 회덕면 수택동 박영광(朴泳光) 처사 집을 대각교 회덕 지부로 결정하고 간판을 건 뒤에 관음기도를 지성으로 하였더니 음력 11월부터 배우지 않고 생각도 않았던 게송, 설법, 강화(降話) 불보살의 명호, 무진다라니 무진장 장구(章句) 등이 입에서 나오고 강신(降神)이 되면서 신필(神筆)이 쓰였다.
사람, 시로 읽는 한국 근대인물사
오현스님의 시, 백용성
조오현, 『사람, 시로 읽는 한국 근대인물사』(2013, 민음사), pp.83-84.
0001_0100_b_01L
장수 땅에 낙지(落地) 동진출가
금오산에 천 년의 달이요 낙동강에 만 리의 파도로다
고기잡이 배는 어디로 갔는고 예와 같이 갈대꽃에서 잠을 자도다
시를 읊고

만해 한용운과 함께 3·1운동 독립선언서에 서명
서대문 감옥에 수감
2년 만에 출옥
상궁들이 시주 대각사 창건 역경에 몰두
불상(佛像)의 복장 속에 독립자금을 넣어 상해 임정에 전달
동포들의 삶의 터전을 독립 자금을 만들기 위해
만주 용정에 농장 수십만 평 경영

해방된 조국 하늘을 못 보고 귀적(歸寂)
글 만해 한용운 전액 오세창
해인사에 비석 건립


1945년 임정 요원 모두가 김구 선생을 모시고 용성 스님의 영정을 찾는 날

대각사 대들보가 ‘쩍·쩍·쩍’ 갈라지는 소리에 다들 놀라 서로 쳐다 보고 있을 때 김구 선생은 ‘스님의 법음(法音)이다 스님은 가셨지만 스님의 민족애는 잊지 말아야 한다’고 당부
아, 용성도 김구도 임정 요원 그 모두 다 갔지만 아, 아 나도 가야 하지만 스님의 행장에 법향(法香)이 그때 그 사진 한 장으로 남아
부산불교 100년의 발자취
백운 스님 증언 ; 독립자금을 임시정부에 제공
『부산불교 100년의 발자취』(2014, 무량수), p.139.
독립자금을 제일 많이 낸 사람이 오성월 스님, 이담해 스님, 김경산 스님, 백용성 스님, 김구하 스님이다. 오성월 스님은 김상호 선생을 통해서 보냈고, 용성 스님은 각설이 스님을 통해서 보냈다. 이와 관계된 흥미로운 일화를 소개하려 한다.
성월 스님의 또 다른 상좌, 김상호 선생은 매우 당찬 성격의 소유자였다. 조선불교청년회, 만당의 핵심 멤버로 주도적인 역할을 했으며, 상해 임시정부에서 귀국하면서 임정의 불교계 국내 비밀 통신 사무를 담당하였다. 불같은 성격이지만, 독립정신이 투철하여 오성월 스님이 각 본산에 요청해서 모은 비밀자금을 받아 임시정부에 있는 김구 선생에게 전달하는 역할을 하였다. 하지만 말년의 친일활동으로 논란이 되고 있다.
상좌들 사이에서 구두쇠로 유명했던 용성 스님은 사흘 나흘 굶고 버티며 아껴서 모은 돈을 독립자금으로 보냈다고 한다. 비밀요원이 내려오면 몰래 쥐어줬다고 한다. 그 당시의 비밀요원의 행색은 각설이였는데, 거지 옷을 입고, 양철통을 둘러메고, 각설이 타령을 하는 스님이었다. 궁핍한 시절이라, 주위 사람들은 대수롭지 않게 여겼지만, 각설이가 내려오면 용성 스님이 양철통 밑에 돈을 넣고, 그 위에 밥을 깔아서 보냈다고 한다. 하도 일본군의 감시가 심했던 터라 그렇게 위장하지 않으면 들켰을 일이었다.
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  1. 1)원적(园寂) : 불교술어. 불자의 죽음을 뜻함 - 편자.
  2. 2)개척민 : 금세기 초 조선 이주민들에 대한 호칭. 중국인들은 지방관청의 호칭에 따라 《개간민》, 《간민(垦民》이라고 했음 - 편자.
  3. 3)화과원華果院은 용성 스님이 1927년부터 함양 백운사에서 산림과 황무지를 개간하여 선농불교 운동을 펼쳤던 곳이다.
  4. 4)용성 스님과 화과원 설립 문제에 대해서는 김광식, 「백용성의 선농불교」, 『근현대불교의 재조명』(민족사, 2000)을 참고할 수 있다.
  5. 5)‘용정의 화과원’이란 1927년 9월 용성 스님이 간도 용정에 세운 대각교당(선농당)을 말한다.